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小中学校の授業と運動会、勉強ができる子と運動ができる子

小学生の時から思っていた。

私は運動が嫌いなわけでもなく、苦手でもない。小学3年から野球をしていて、得意な方だった。

ただ、足が遅かった。

足が遅いことは、大人になればなんてことはない。みんな走れなくなるからどうだっていい。

でも小学生にとっては違う。

足が遅いというだけで、小学生男子社会のヒエラルキーの最下層に入れられる。

さらに、運動会の徒競走では全校生徒のみならず、保護者の前で恥さらしにあう。運動会は普段の努力を披露する場であるはずだ。しかし、小学校の体育の時間のうち、いったい何時間を足が速くなるために使ったのだろうか。足が速くなる方法があり、努力をすれば1位の子と同じくらいに走れるのであれば、いくらでもがんばった。けど、誰もそんな方法知らないし、1位の子に勝つ方法なんてなかったと思う。

運動会の徒競走では明確に順位が出る。順位だけでなく、どれだけの差がついているかまで明確にわかる。

そう、人間社会は競争がつきものだもんね。しょうがないよね。

でもさ、小学校の半分以上の時間は、勉強のために使っているよね?なのに、なぜか自分のテストの点数はわかっても順位はわからないし、他人の点数もわからない。自分の偏差値さえわからない。なんなら平均点もわからない。

なんで?

テストには満点があるから、勉強が苦手でも、満点さえとれば1位になれる。だから、徒競走のように明確な順位付けにはならないし、努力の結果がすぐに表れるからがんばる材料にもなると思う。

全校生徒と保護者を集めて順位を公表することまでしなくても、クラス内の順位や、せめて成績上位者の発表くらいしたって、文句言える人いないと思う。だって運動会の徒競走に文句言ってる人見たことないから。

これを不公平と言わずなんというのだろうか。

大人になったら勉強できる人の方が評価されるからいいだろうって?

だったらなんで大人になったら評価されることを子どものうちから評価しないの?

ちなみに、私は徒競走をやめろというよりは、他のことも順位付けしようよ!という意見です。いろんな子どもが活躍できる場を作ってあげてほしい派です。写生大会や書写コンクール、読書感想文コンクールみたいに、算数のおもしろい問題作成コンクールとか、円周率たくさん覚えるコンテストみたいな。

何もかもできない子がいたらどうしようかとも思うが、その子の良さを見つけてあげるのも親や教師の役目だと思う。みんながそれぞれ違った良さを発揮できる小学校になってほしい。

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