あれから1年【北新地ビル放火事件】

こんにちは、心理学生で発達障害当事者の福祉犬です。

貴方はどうやってこの記事にたどり着きましたか。興味を持ってくれてありがとう。もし、同じ経験をした800人関係者の仲間なら一緒に頑張ろう。

さて、あれから1年が経とうとしています。
あの悲しい事件、北新地ビル放火事件です。
2021年12月17日金曜日忘れもしないあの日。
私の主治医が亡くなりました。
殺された、と言った方がいいのでしょうか。
事件後にPTSDと診断された私が、1年が経ち、取材申し込みが来る中で、今の心の葛藤を書き出したいと思います。

完全に心の整理のために書くので、それでも読むよという方がいたら、嬉しいです。

職場で知ったあの日。忘れもしないあの衝撃。
そう、殴られたかのような衝撃。

あの日は通院予定日でした。
仕事の片づけをしながら、今日の診察でこれ言おうってまとめてました。
ソラナックス飲んだらスッキリ起きれるようになりました~って、言おうと思ってた。2時間後に会うはずだった。2時間後に言えるはずだった。

日曜日の夕方に西澤先生の訃報が流れた。覚悟はしてたけど、聞きたくなかった。「膝から崩れ落ちる」を初めて経験した。

月曜日、同じ職場のもう一人の通院患者が献花のために仕事を休んでた。

職場だけど、泣き崩れてしまった。仕事が出来なくなった。優しい同僚たちに助けてもらって何とかやってた。

感情のコントロールが出来なくて当たり散らすようになった。加害者が亡くなったことで爆発する寂しさや、悲しさや、やるせなさの向け場所が無くなっていた。

1月の中頃、仕事を休みがちになった。週の後半に仕事に行けなくなった。それでも月曜日からは頑張って行ってた。

中頃を過ぎたら、寝れなくなった。
二日経っても三日経っても寝れない。
しかも、身体が勝手に丸まってくる。
自分がどこにいるか分からなくなる。
虫がいる。ピアノの音が聞こえてくる。

新しい病院で話したら、「せん妄」だと言われた。
そこで休職が決まった。

定着支援が止まっていた。西澤先生が運営していた就労移行支援所を利用していたから、亡くなって運営が止まった。

新しいところが見つからない。どこも人が殺到していると、断られる。

休職しているのに、事業所を探して、休んでる気もしない。
新しい通院先も新しい定着支援の事業所も知り合いの伝手で見つかったのは不幸中の幸いだったかもしれない。

でも、結局、目いっぱい休職期間を使っても職場には戻れなかった。

元職場への愚痴タイム。
リハビリ出社、短時間からって医療機関と話してたけど、その制度が職場にはなかった。いきなり、週5回休職前と同じように戻ってくださいと言われた。リハビリで職場の方まで行きたい、復職に向けて面談をお願いしたいと言っていたけど、叶わなかった。休職中なので職場まで来ないでくださいって言われた。リハビリすらさせてくれないのかと。邪魔させろって言ってるわけじゃないのに。

そんなこんなでハードルが高すぎて、復職できなかった。
とどめは、「あなたを休職に追いやった職場だ」と言われたこと。
事件前から色々あったので、そうだ、そうなんだって思って、思い切って退職届を出した。

もう、ぐちゃぐちゃ。

今も無職でリハビリしてます。
この期間、自殺未遂したり、急に意識なくして倒れたり、なんでこんなことになっちゃったかなぁ。

事件が起きた悲しみと、やるせない気持ちの向ける場所が無くなっていくのと、事件から時間が過ぎていくことで、置いていかれるという不安や恐怖、孤独感に押しつぶされそうになる。

この気持ちを出せなくなっていく。何故なら、当時の自分を知る人がいなくなっていくから。

この温度感を共有できる人がいなくなる。一人勝手に傷ついて、引きずって、みんなは前に進んでいく。

もう終わりだ、って気持ちになる。死んだほうが楽、そうなっちゃう。

今は、社会が敵なんです。傷つきたくないって勝手に思うから、一人の世界にこもりたい。

当時と同じ温度感で、身体が苦しくなって、手が震えて、パニックになる。

ほんと、もうだめになっちゃうよ。

他に仲間いないかなぁって思ってる。一緒に頑張ってる人いたら、有難いなぁ。もちろん、誰も苦しんでないほうがうれしいんだけど。

今日はここらへんで。読んでくれてありがとう。
ほな、また!

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