藤子・F・不二雄のSF短編「ミノタウロスの皿」から考えたこと
最近、NHKで藤子・F・不二雄のSF短編作品を実写ドラマ化したものが放映されていたので、それに関連してふと考えたことを書き綴ろうと思う。
藤子・F・不二雄のSF短編は私も好きで、その中でも特に問題意識をくすぐられたのが『ミノタウロスの皿』という短編である。
※以下ネタバレを含む。
「ミノタウロスの皿」のあらすじはこうだ。
主人公のおれは宇宙航行中に遭難し、ある惑星へたどり着く。
その星は牛にそっくりなズン類という種族が支配し、ウスと呼ばれる人間そっくりの種族を食用家畜としている。これに反感を覚えたおれはズン類とウス両者に、このような蛮行をやめるよう説いて回るが、食する側のズン類だけでなく、ウスの方も家畜として役に立つことに使命感を抱いており、食べられることを受け入れているどころか誇りにさえ思っていて、一向におれの説得を受け入れようとしない。両者はおれの説得に対し真っ向から反論するというより、そもそもなぜそのようなことを言っているのかすら理解できていない、といった風なのである。おれはその星で出会った少女ミノアが食用肉として祭りにささげられるのを必死で止めようとするが、最終的にそれを阻止することはできず失意のままその星を後にする。
ここで示されている一つの痛烈な批判は、人は自分の価値観があまりにも当たり前のものとして浸透していると、それに対する反論の論点すら理解することが難しいということである。
われわれ読者は最初、主人公おれの目線でその星の習慣を目の当たりにする。人間が牛を食すわれわれの文化的価値観からすると、その星の習慣はまったく逆転状態にあり奇異に映る。だから物語序盤では、おれの行動は読者にとって自然な流れに写る。
ところが物語が進んでいくと読者の感じ方に変化が訪れる。
その星のズン類やウスはおれの主張に対し、聞き入れるどころかその趣旨すら理解できていない様子であるが、その様に暖簾に腕押しの状況であるにもかかわらず、おれの方も自分の価値観を微塵も疑うことなく、ひたすら説得を試みるのである。
このとき読者は、異文化側に位置するズン類やウスが、彼らの奇異な価値観について反省的に見ることが出来ないということを感じるだけでなく、当初読者の側にいたおれもまた自分の価値観を反省的に見ることが出来ないことに気づく。これはすなわち、この短編を読んでいる読者に向けて、あなたたちも同様に、当たり前のものとして受け入れている価値観を反省的に見ることができていないのではないか?という問いかけを与えることになるのである。
ちなみに、この物語のラストカットはおれが帰りの宇宙船の中でステーキを頬張る絵になっている。これまで散々ある動物がある動物を食べることの残酷性を目の当たりにしたにもかかわらず、おれはついぞ、人間が牛を食べるという価値観に1ミリの違和感も抱くことはなかったのである。これはこの作品特大の皮肉になっている。
この皮肉を感じた読者は、大きく分けて二つの反省の視点を思い浮かべるであろう。
1つは上記でも述べたように、
「われわれが当たり前のものとして受けている価値観を、われわれは自己批判的に反省して考えることが出来ているのであろうか?」
というものである。
そしてもう1つはこうである。
「その当たり前の価値観としてわれわれが持っているものの中で、まさにこの物語に描かれている「動物を家畜として利用すること」は、もしかして残酷なことではないか?」
という反省の視点である。
藤子・F・不二雄は明らかに、ある種の批判を込めてこの作品を描いているが、それが前者の「自身の価値観を自己批判的に反省することの難しさ」についての批判(その場合、その価値観の具体的内容を特定せずただその形式に関しての批判)であるのか、それとももっと直接的に「動物を家畜として利用すること」そのものに対する批判にまで及んでいるのか、それは読者によって解釈が分かれるであろう。
現在でこそ世界的に動物愛護の思想が普及し、「ビーガン」(ベジタリアン以上に厳密に動物由来の食品を摂らな人々)の存在も一般的に認知されるようになってきていているが、この『ミノタウロスの皿』が発表された1969年という時代を鑑みると、藤子・F・不二雄の批判の矛先が後者を含むのだとすれば、その先見性は驚くべきものである。
私がこの作品に興味を惹かれたのもこの点である。
現代では動物愛護の機運がこれまでになく高まり、ペットとして飼われる愛玩動物に向けられる人々の愛情は彼らを家族の一員として扱うことが当たり前とされるほど強くなっている。さらには自分が飼っている個体に対する愛情だけでなく、犬猫のようなペットとして飼われる種族そのものを愛護すべき存在であると考えるのが一般的になってきている。その一方で家畜動物、特に牛、豚、鶏の食用肉は大量生産、大量消費の真っ直中にある。
ある動物はその生を尊重して扱うべきだとされ、他方では商品として扱われ生涯を閉じる動物もいる。
私は犬、猫を大事にすることを批判しているわけではない。むしろ命を大切にするという点で尊い考え方だと思っている。そして家畜が生き物としての尊厳を全く無視されている、ということを言いたいわけでもない(少なくとも日本においては、生育中は苦痛や不快がないように配慮されていることがほとんであろう)。
私が違和感を覚えるのは、現代社会におけるペットと家畜に対する扱われ方が、論理的に一貫性を欠いていると思われるほど乖離しているのではないかという点なのである。犬、猫はどのようしたら彼らが幸せな暮らしをできるのかということを念頭に飼育されているのに対し、家畜はいくら配慮されているとはいえ飼育の主眼に置かれているのは、いかにしてその商品価値を高めるか維持できるかという点である。この乖離を思うと『ミノタウロスの皿』が示す動物を家畜として扱うことに関する問題提起は、現在を生きる私の関心を強く引くのである。
仮に愛玩動物と家畜、もし両者の扱いに矛盾はないと主張するのであれば、どのような説明が考えられるであろうか?
一つはこうである。
生き物を可愛がる気持ちは、人間の持って生まれた自然な性質であるが、肉を食すこともこれまた人間として自然な行為である。肉食動物が他の動物を捕食するのを悪しき行為であるとは言えないだろう。それと同じく家畜を食するという行為はあくまで人間の自然な営みなのである。すなわちペットを愛でることと家畜を食すること、どちらも人間として自然な行為の範疇なのである。
この主張については次のように思われる。
われわれが現在行っている食用肉の大量生産・大量消費は自然界で肉食動物が他の動物を捕食するというレベルを超えている。
自然界では自分や家族・仲間が生きていくために必要な分しか捕食しないが、人間界では自分や家族が食するためだけでなく、これを商品として売るために生産・流通させている。
その過程では食べきれなかったり、売りきれなかったりで廃棄される量も多大にあるし、生育の段階においても商品管理の一環としてやむを得ず殺処分することもあるだろう。つまり自然界のように食べる分だけの命を奪っているという状況からほど遠い。
このような状況を鑑みると、われわれがしていることは自然界で肉食動物が他の動物を捕食するレベルから大きく逸脱しており、もはや自然な行為とは言い難い。
次に考えられるのがこのような主張である。
家畜は食用のため(乳牛や雌鶏など食用ではなく乳や卵を提供する家畜もいるが)に生まれてきた品種である。つまり家畜動物の種としての目的は、食されることであり、食用に用いることこそがその生を尊重することにあたる。そして、そうでない犬や猫などの動物とは扱いが異なって然るべきなのである。
この主張については、次のように思われる。
「家畜が食されるために生まれてきた」ということは、それは人間がそう決めたというだけの話にしかならないだろう。
そもそも例えば肉が美味しくなるように、牛乳がたくさん取れるようにといった品種改良は人間が恣意的に行ってきたことである。しかしその前に家畜であっても一個の生命体であるから確実に生存本能は持っている。直接彼らの意志を確認できはしないが、もし言葉が通じるなら「食用とするためあなたの命を奪ってもよいか?食用肉にされることに満足を感じるか?」という問いに対する彼らの答えはおそらく「NO」である。
実はこの点も『ミノタウロスの皿』の巧妙なところである。この作品の中で、家畜として食されるウスはそのことに合意している。このことは、家畜に合意を取ることなく食用に利用しているわれわれ人間のしていることの方が残虐で野蛮なのでは?という視点をほのめかすものになっている。
いずれにしても、家畜は食されるために生まれてきたから食用に与してよいという発想は人間側の幻想に過ぎないように思う。
仮に家畜は食肉に適した体で生まれてきたのだから、ということを根拠にこの主張を展開するのであれば、身体能力が高く生まれてきた人はスポーツや肉体労働など体を使う職業に就くべき、という主張もまかり通ってしまうかもしれない。もちろん動物と人間を同列で語るべきではないだろうが。
次のような主張も考えられる。
犬や猫などペットとして飼われる動物は、家畜動物に比して感情が豊かであり知能も高く賢い。だから犬、猫は家畜動物よりも尊重して扱わなければならないのである。
この主張については次のように考える。
もし感情の豊かさや知能といった能力の高低によって扱いに差をつけるということであれば、そのラインはどこで引かれるのであろうか?犬、猫も品種によって知能などは変わってくるだろうし、家畜動物の中にも稀に賢い個体が誕生するかもしれない。犬、猫でもしそのラインを下回る種や個体がいた場合、家畜と同様に扱ってもよいという話になるのであろうか?
また、これを人間に置き換えた場合、能力の差によって命の扱いに差をつけてもよいということになり、あってはならない差別にあたるが、なぜ動物にならそれを適用してもよいのだろうか?
そもそも感情の豊かさや知能(記憶力や論理的に思考する能力)は、人間を含めた動物が持つ能力の一項目にしか過ぎない。自然界において知能が高いということは生存に有利に働くであろうが、それ以上に足が速いということが生存のために重要な能力かもしれない。草食動物など捕食される側の動物は、感情が豊かな方が行動に個性が表れ目立ってしまい捕食される可能性が高くなる、すなわち感情が豊かでない方が生存能力として優れているという考え方もできるかもしれない。つまり何が言いたいかというと、感情の豊かさや知能といったものは、動物が持つ多様な能力のパラメーターのごく一部分でしかないのに、それが高いということによって命の扱いに差をつけてもよい、というのは論理的に飛躍しているように思われてならないのである。
ということで、少なくとも私が考える限り、現代社会における犬や猫のような愛玩動物と牛・豚・鶏のような家畜の扱いの不均衡は、論理的に一貫したを説明することが難しい状況になっていると言わざるを得ない。
例えば、かつて犬は番犬や猟犬として飼われ、猫はネズミ駆除のために飼われていた頃の、あくまでも人の役に立つことが飼う主な理由だった時代であれば不均衡も少なく合理的な説明がついたかもしれない。しかし犬猫を飼う目的として愛護することが第一の理由になった現代において、食用家畜と対比したときに、その乖離は看過できないレベルにまで達している。
もし論理的に一貫した説明を与えようとするなら次の2つの道しかないだろう。
A.家畜の利用をやめ、ビーガンのような食生活に移行する。こうすれば、犬、猫と家畜動物に対する差別はなくなる。
B.犬や猫を大事に飼うことも、あくまで人間がそのようにしたいからそうしているに過ぎないと考える。つまり人間が犬、猫を可愛いと思うから大事に扱っているだけであり、言わば自己満足のために飼っているということである。そうすれば、犬、猫、家畜もすべてあくまで人間の欲求を満足させるために利用しているということで一貫した説明が可能になる。この場合、犬、猫を家畜として利用する人がいても批判する術がなくなってしまう。
昨今の風潮からすると現在はAの方向に流れてきているように感じる。そのため、もし人工肉の製造が安全面、コスト面、味の面で一定の基準をクリアできれば、ひょっとすると未来では本物の食肉をいただくことは限られた場面においてのみになるかもしれない。(確か藤子・F・不二雄の他の作品で、人工でない肉を食べて未来人が感激するシーンがあった。)
ただ一方で人間同士の差別も今だ根強く残り続けているので、あり得るとしても遥か先の話になるかもしれない、とも思う。
そして論理的に一貫していなくても、矛盾しながらもそれを受け入れていくという道も十分にあり得るだろう。それもある意味人間らしいとも言えるのかもしれない?
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