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徳川幕府と15人の将軍それぞれ

徳川幕府と15人の将軍それぞれ

 「南北朝時代と室町幕府」の続編の武家政権の徳川幕府についてです。武家政権とは、形式的には将軍が朝廷 (天皇) から軍事・徴税を含む行政権すべてを委託される征夷大将軍に任命されて幕府を運営します。

 従って教科書的には、 最初の武家政権である鎌倉幕府は1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されたところから始まりますが、 最近では頼朝が朝廷から守護・地頭設置権を認められた 1185年に始まったとの考えが一般的です。
そして終わりは最後の将軍・ 守邦親王が後醍醐天皇に攻められて征夷大将軍を辞任する 1333年となります。 北条氏はあくまでも執権で、征夷大将軍である将軍は朝廷から 「派遣」 してもらっていたのです。

 その逆に室町幕府は、 足利尊氏が征夷大将軍に任命された 1338年から最後の将軍 義昭が征夷大将軍を辞任した 1588年までではなく、尊氏が建武式目を制定した1336年から義昭が織田信長に京都を追放された1573年までとするようです。

 また室町幕府では尊氏と3代将軍・義満が、それぞれ朝廷が南北に別れ並立する南北朝時代(1336年~1592年) の始まりと終わりに直接関わっていたため、どうしても天皇家の正統性に関する議論が出てきてしまうので、いまだに室町時代も尊氏も義満もほとんどテレビドラマにも出てきません。 意識的に無視されている時代です。

 徳川幕府も1603年に徳川家康が征夷大将軍に任命された 1603年に始まり、 最後の将軍・慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した 1867年に終わります。 日本の武家政権と朝廷の関係は、世界史の中でも 「きわめて特異な形態」 なのです。

 また室町幕府と徳川幕府の間に織田信長と豊臣秀吉の時代がありますが、この両名は征夷大将軍ではなく従って武家政権だったとは言いません。もっとも秀吉は甥の秀次と共に天皇を補佐する関白になっており、また違ったアプローチを考えていたようです。 五摂家以外からの関白はその後も含めて秀吉と秀次だけです。

 さてこのシリーズは最後の武家政権である徳川幕府についてですが、本でもドラマでも映画でもたくさん取り上げられている時代なので、焦点を以下の3つに絞ります。

  まず「朝廷(天皇と公家)との関係」、次に「海外列強との関係」、最後に「15 人の将軍それぞれ」です。基本的に江戸時代とは朝廷 (天皇と公家)を押さえつけ、時代の大半の鎖国政策で海外との関係を絶ち、その中で最高権力者であるはずの将軍職が吉宗以降は急激に形骸化していった時代でした。

 そしてそれら全ての不満や思惑やエネルギーが一気に爆発したのが 「明治維新」 だったはずです。 同時に明治維新とは 「日本史最大の闇」 であると確信しているため、 近い将来「明治維新」について深く解説するための序章とも考えています。

 前置きが長くなってしまいましたが、 ここから本文です。

 さて織田信長が足利義昭を将軍にたてて上洛した1568年から、 その義昭を追放した1573年、本能寺で明智光秀に攻め滅ぼされた1582年、 その後を継いで豊臣秀吉が関白太政大臣に任命された 1586年、その秀吉が没した 1598年、その跡目争いの関ヶ原の戦いが 1600年、そして勝利した徳川家康が征夷大将軍に任命され徳川幕府を開く1603年からしばらくの間の「朝廷(天皇と公家)との関係」 と 「海外列強との関係」を見てみましょう。

 まずこの期間の前半は 106代・正親町 (おおぎまち) 天皇(在位 1557年~1586年)の時代でした。 実はこの時期は朝廷 (天皇と公家) の生活が大変に困窮しており、即位の礼もあげられないような状態でした。

 そこを救ったのが戦国大名の毛利元就と本願寺法主・ 顕如で、ともにその後に権力を拡大することになります。

 1568年に上洛した織田信長も、逼迫している朝廷の財政をさまざまな政策で回復させます。同時に回復していく朝廷の権威を最大限に利用して、 敵対勢力に対する講和の勅令を何度も得て勢力を拡大していきます。

 豊臣秀吉も正親町天皇に御料地や黄金を献上し関白太政大臣となり、 朝廷の権威を最大限に利用します。正親町天皇も決して信長や秀吉の言いなりになっていたわけではなく、むしろ両名をうまく利用して朝廷の権威と財政を立て直した 「したたかさ」 が感じられます。 1586年に孫の107代 後陽成天皇(在位 1586年~1611年)に譲位し、隠居しました。

 1603年に徳川家康を征夷大将軍に任命したのは、この後陽成天皇ですが、家康は直後から朝廷権威の抑圧をはかり干渉を強め、官位の叙任権や年号の改元にまで関与するようになります。

 後陽成天皇は秀吉の勧めもあり第1皇子の良仁親王を皇位継承者に指名していたのですが、家康はこれにも難癖をつけて第3皇子の政仁親王を指名させます。 この政仁親王が 108代後水尾天皇(在位 1611 年~1629 年) となります。 徳川幕府の数々の勝手な振る舞いを腹に据えかねて辞任しようとするのですが、 それも徳川家に拒否されてしまいます。

 とうとう後水尾天皇は、中宮となっていた2代将軍秀忠の娘の和子 (まさこ)との間に生まれた興子内親王に勝手に譲位してしまいます。 明正天皇 (女帝) ですが、 徳川家としても血が繋がる天皇の誕生を拒否することも出来ず、かといって女帝は結婚できないのでそこで天皇家における徳川家の血も途絶えてしまうことになり 「まんまとしてやられた」ことになりました。

 後水尾天皇は譲位後、 明正 後光明・後西・霊元と4代の天皇の後見人として院政を行い、1680年に85歳で亡くなります。 昭和天皇に次ぐ歴代2位の長寿でした。 後水尾天皇もなかなか 「したたかな」 天皇だったのですが、こうした徳川幕府と朝廷の「陰湿な争い」がその後も積み重なり、 明治維新へのエネルギーになっていきます。

 さてもう一度、織田信長にもどって 「海外列強」 との関係を見ていきましょう。

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