日韓併合と朝鮮半島史  後半

日韓併合と朝鮮半島史  後半



その4  日韓併合に至る過程をもう少し詳しく


 前半ではようやく1910年の日韓併合まで来たが、そこに至る重要な出来事は再確認しておきたい。日本は決して西欧列強のように朝鮮半島に一方的に攻め込み、蹂躙して何でも奪っていったわけではなく、最もコストのかかる日韓併合に踏み切ったことを強調しておきたいからである。

 1392年から朝鮮半島を統一していた李氏朝鮮は、建国以来、明そして清の属国という不完全な国家であった。また朝鮮王室も朝鮮半島の近代化や経済発展には一切興味がなく、ひたすら朝鮮国民(大半が農民と小作人)を虐待して年貢等を搾り取るだけであった。また首都・漢城(現在のソウル)でも必要最低限のインフラ整備も行わず、衛生状態も最悪のままであった。

 またここまで単純に「日本」と書いて来たが、1868年の明治維新以降は正式には「大日本帝国」なので、今後はそれで統一する。

 そして大日本帝国は日清戦争(1894~95年)に圧勝して、下関講和条約で「朝鮮が自主独立国であること」を清に認めさせる。つまり朝鮮半島における清の影響を排除したことになる。

 その後、北の大国ロシアが南下政策の一環で露骨に満州や朝鮮半島に触手を伸ばし、また朝鮮国王の高宗も何故かロシアに協力していた。そこで大日本帝国も国防の見地から日露戦争(1904~05年)に踏み切らざるを得ず、国力を総動員して勝利する。

 その停戦には米国大統領のセオドア・ルーズベルトが仲介し、ポーツマス講和条約で大日本帝国はロシアが租借していた(もともとは日清戦争で大日本帝国領となっていたが、三国干渉でロシアが取り返して租借していた)旅順・大連を含む遼東半島先端の軍事要地(関東州)を改めて租借し、ロシアが敷設権を得て建設していた東清鉄道の旅順~長春間支線の敷設権と租借権も獲得し、満州進出の足掛かりとする。

 そして朝鮮半島においては、米国と英国に大日本帝国の朝鮮半島支配を認めさせる。英国はロシアの南下を防ぐために日英同盟を締結していたからで、米国には代わりにフィリピン支配を認めたこともある。また日露戦争でセオドア・ルーズベルト大統領が講和を急がせた背景も、このまま戦闘が長引くと国力に勝るロシアが盛り返し逆転する可能性があり、米国にとっても脅威であるロシアのアジア進出が食い止められなくなるからである。

 繰り返しになるが、当時の朝鮮は日本のおかげで独立し国号だけは大韓帝国としていたものの、当時の米英の認識は朝鮮(大韓帝国)が独立国として体制維持が困難で、ロシアの南下や東アジアの安定のためにも大日本帝国が朝鮮(大韓帝国)を保護国化することが好ましいというものであった。

 そういう列強の思惑も加わり、大日本帝国は1905年11月17日の第二次日韓協約で大韓帝国の外交権を剥奪し、保護国とする。また1906年3月3日に韓国統監府を設置し、伊藤博文が初代統監となる。

 この段階で米英など西欧列強の思惑は、大日本帝国による大韓帝国の支配強化(保護国化)であり、日韓併合にまで踏み込んでいない。列強は当然のように搾取するだけの植民地化は莫大な利益をもたらすが、日韓併合となると経済後進国で問題だらけの大韓帝国を大日本帝国の一部とする(つまり合併させる)ことになり、逆に莫大な負担が発生する。さすがに大日本帝国にもそこまでは期待していなかった。

 それでは日韓併合とは、いつ、だれが言い出したのか? 当時の記録をもう一度精査してみると、どうも大日本帝国の主要ポストにいる人物の大半は、外国(ここは大韓帝国、後の満州国も同じ)を支配するなら、日本と同じように扱う併合(つまり合併)するものと考えていたようである。後の満州は併合しなかったものの、独立国として対等に接することになる。ここも日本人の律義さが出ており、西欧列強のように搾取するだけの植民地政策など全く考えていなかったことになる。朝鮮半島は当時の日本と併合されたことは、望外の幸運だったことを理解しなければならない。

 つまり旧ソ連が崩壊した1990年代はじめに、当時の西ドイツが莫大な負担を強いられながら旧東ドイツを併合(つまり合併)したことと同じである。東西ドイツはもともと同じ国であるが、距離的に近いとはいえ別の国である大韓帝国を併合し、後の満州国は独立国として対等に接していた当時の大日本帝国の行動は「西欧列強でさえ」想定もしていなかった。

 実際には1907年に高宗によるハーグ密使事件が起こり、日本国内でもようやく高宗退位、日韓併合機運が高まる。ここでも大韓帝国を保護国から日本の一部として面倒をみる併合が中心意見だった。

 大日本帝国は同年7月24日の第三次日韓協約で朝鮮(大韓帝国)の内政権も剥奪し、8月1日には軍隊も解散させ、1909年7月6日に桂内閣が「近い将来の韓国(大韓帝国)併合を断行する方針」を閣議決定し、ようやく日韓併合の準備が整う。

 そして1909年10月26日、ロシア帝国領のハルピン駅構内で枢密院議長の伊藤博文(当時は初代・韓国統監は退いていた)が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されるに至り、日韓併合は決定的となり、1910年8月29日「韓国併合に関する条約」により大日本帝国が大韓帝国を併合した。

 つまり日韓併合は決して大日本帝国が独断専行したものではなく、韓国世論も重視して慎重過ぎるほどの時間と手間をかけ、対ロシア対策など列強各国の思惑があったものの米英をはじめ西欧列強の支持も得た後、さらに列強各国も想定していなかった莫大なコストのかかる併合としたことになる。

 ここでハルビン駅構内における伊藤博文の暗殺にもナゾが残る。まず当時のハルピンは満州北部にあるがロシア帝国領だった。ほぼ満州全域で清は1689年のネルチンスク条約で不法侵入・密漁を繰り返すロシア人を追放していた。もともと満州は清を建国した女真族(のちの満州族)の本拠地であり、当時の清は全盛期だったからで、その頃から漢民族を多数移住させ満州の開拓を進めていた。

 ところが19世紀に入り清が弱体化し始めると、再びロシア人が満州北部に入り込み、アヘン戦争に続くアロー号事件後の天津条約(不平等条約)が1860年にロシアとの間にも締結され、満州はロシアが管轄することになる。ロシアは満州全域に鉄道敷設権も獲得し実際に東清鉄道を敷くが、日露戦争後のポーツマス条約でこの満州南部の旅順~長春間の支線は日本が租借し周辺の敷設権も獲得する。敷設権といってもその鉄道周辺にある鉱山採掘権(とくに旅順には良質の石炭が露天掘りされていた)や工場建設、居住区の施政権など含む膨大な利権となる。

 そんな中で伊藤博文が暗殺されたハルピン駅は満州北部にあり、ロシア帝国が管轄していた。そして伊藤博文は数少ない日韓併合反対論者だった。その理由はもちろん保護国化とは違い、日韓併合には莫大なコストがかかり「割に合わないから」である。

 そんな中で仮に安重根が朝鮮民族主義者で日韓併合を阻止しようとしていたなら、伊藤博文は最も暗殺してはならない重鎮で、事実その暗殺で日韓併合が加速されてしまった。しかも場所はロシア管轄内のハルピンで、当時は(いろんな思惑はあるものの)朝鮮の唯一の味方だったロシアで暗殺を行えば、そのロシアとの関係までおかしくなる。

 つまり安重根の行動は「全く合理性がなかった」ことになる。そもそも伊藤はロシア蔵相・ココツェフの招きで「わざわざ」ハルピンを訪れ、列車内で20分ほど会談している。つまりロシア側に伊藤を「わざわざ」ハルピンまで呼ぶほど「差し迫った重要議題」があったとは思えない。しかもその会談後、ロシア側が用意した列車内食堂での宴席の前にココツェフは伊藤に「わざわざ」ロシア兵の閲兵を依頼している。混雑する駅構内での閲兵は、射殺するには絶好のチャンスとなる。

 そして犯人とされる安重根は伊藤と同じ高さのホームにいたが、伊藤の受けた銃創はもっと高い位置から発射されたことを示しており、また銃弾も安重根の所持していた拳銃から発射されたものではない。安重根は確かに数人の仲間とともに発砲してロシア兵に取り押さえているが、伊藤殺害の直接の犯人ではなかった可能性が強い。最も可能性のある首謀者はロシア政府であるが、確かに南満州の利権をそっくり奪われた恨みはあったものの、それだけでは短絡過ぎる。

 またロシア管轄内での事件だったにもかかわらず、ロシアは捜査権、裁判権をすべて大日本帝国に引き渡している。また大日本帝国もよく調査せず、安重根を犯人として翌年に処刑してしまった。ここは逆にロシアが併合反対派の伊藤を暗殺し、大日本帝国に負担の大きいに日韓併合に追い込み、大日本帝国の国力を削ぐ思惑があったと考える方が自然である。

 そして安重根は今も大日本帝国と戦った「英雄」として、ソウルに立派な記念館が建てられ、いまだに日韓サッカー試合中に写真が出てきたりしている。まさに日韓併合が、今日に至るまで日本と朝鮮半島の「根深い対立構造」を生んでいるなら、当時のロシア政府の思惑はまだ効いていることになる。

 しかし第二次世界大戦後の通貨体制であるブレトンウッズ体制とは、当時は世界の8割以上を保有していた米国の金準備を、あっという間に枯渇させたものである。そしてその提唱者は当時のルーズベルト政権に送り込まれていたコミンテルンのスパイであるデクスター・ホワイトであった。国家体制が変わってもロシアとは油断のならない国である。

 横道に逸れたので話を戻すが、日韓併合時の韓国統監は3代目の寺内正毅・陸軍大将である。その後、韓国統監府は朝鮮総督府と名前を変え寺内がそのまま初代総督となるが、以来この総督の座はずっと陸軍が占めることになる。

 また日清戦争で清から割譲されていた台湾でも総督が指名されていたが、格は朝鮮総統がかなり上であった。


その5  日韓併合時代の大日本帝国の統治


 朝鮮総督府の統治は大きく分けて3つのテーマがあった。「身分開放」と「土地政策」と「教育文化政策」である。

 「身分解放」は日韓併合前の1909年、総督府が新たな戸籍制度を朝鮮に導入した。李氏朝鮮時代を通じて人間とはみなされず、姓を持つことも許されなかった賎民にも姓を名乗らせ、戸籍にも身分を記載することなく平等に登録させた。これにより身分を解放された賎民の子弟も学校に通えるようになった。

 「土地政策」は1910~1919年の間に朝鮮全土の測量を行い、土地の所有者を確定した。この際、申告された土地所有者は原則的に所有権が認められた。また所有権が判明しない土地や、不正な手段で収奪されていた土地は朝鮮総督府が接収し、朝鮮農民に安値で払い下げている。朝鮮総督府の接収した土地は全体の3%程度であったが、ここでも日本は朝鮮の土地を奪ったとの見当はずれの批判が今も出てくる。

 「教育文化政策」は、日本内地に準じた教育制度が整備され、学校建設を最優先課題とした。その結果、日韓併合時には100校程度だった小学校が、1943年には4271校まで増加している。また朝鮮語を必修としてハングル文字を普及させた。日本語を強要したわけではない。また高等教育では1924年に京城帝国大学が、朝鮮唯一の旧制大学として日本で6番目の帝国大学として開校している。台北帝国大学が7番目であり、ともに日本内地の大阪帝国大学、名古屋帝国大学より早く開校している。

 日韓併合とは、明や清のような冊封関係でもなく、保護国でもなく、ましては収奪するだけの植民地でもなく、まさに伊藤博文が危惧したように膨大なコストをかけて「朝鮮半島を大日本帝国の一部として全く対等に扱う」ことである。大日本帝国に最も遅れた地域(朝鮮半島)が急に加わったため、当然に多額の国家予算をつぎ込んでインフラ整備などを行わなければならない。これまで朝鮮半島にほとんど存在していなかった鉄道、道路、上水道、下水道に、発電、病院、学校(先述)など各種インフラ整備を行い、李氏朝鮮時代の500年間で全く成長していなかった朝鮮経済を大日本帝国の負担で、近代化していった。

 そして日本企業も優先的に韓国に進出し、優先的に朝鮮人を雇用して所得水準を引き上げている。その1つが日本製鐵の清津製鐵所で、終戦時に工場など全資産を放棄していったにもかかわらず、いまだに「徴用された賠償金を支払え」と騒いでいる。当時は朝鮮人の雇用拡大に応募した朝鮮人労働者ばかりだったはずで、誰一人として徴用されていない。

 何よりも如実に表れているのが人口増加で、朝鮮半島の人口は日韓併合時の1300万人から1944年には2500万人まで増加し、平均寿命も併合時の平均24歳(さすがに低すぎるが、李氏朝鮮時代の推計値をそのまま使う)から1942年には42歳まで伸びている。また識字率も1910年の10%以下から1936年には65%となっている。それだけ大日本帝国も戦争ばかりで苦しい中で、朝鮮半島を優先的に発展させていたことになる。日本がいなければ朝鮮半島は今も「発展途上国」である。

 ところが第二次世界大戦後の講和会議で、韓国は何と連合軍に「戦勝国として扱うよう」要望し、当然のように却下されている。しかし新たに設立された国連においては「敵国条項」は免除されている。かつてのハーグ密使事件と同じで、朝鮮半島は「恩義」を「あだ」で、しかも「しつこく」繰り返す国であることをいい加減理解しなければならない。

 そしてここからは朝鮮半島は日本に併合されているため、朝鮮半島史そのものは歴史の表舞台から消える。


その6  第一次世界大戦


 1914年6月28日、ユーゴスラビア民族主義者の青年が、サラエボに視察に訪れていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻を暗殺する事件が勃発した。

 当時のオーストリア=ハンガリー帝国皇帝は、ハプスブルグ家の流れを引き68年も皇帝の座にあったフランツ・ヨーゼフ1世だったが、嫡男・ルドルフ皇太子が心中事件で亡くなったため、甥のフランツ・フェルディナントが皇太子となった。なかなか優秀な軍人で国民の期待も高かったが、許嫁のゾフィーは皇族ではなく女官だったため、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は男子が生まれても皇位には就けない条件で結婚を認める。だから「皇位継承者」と呼ばれるわけであるが、フランツ・フェルナンドは皇太子であったことは間違いない。

 そんなフランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されてしまった。

 これによりオーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し、欧州各国は戦争拡大を食い止めようとしたものの、逆に欧州全域に広まる第一次世界大戦となってしまった。世界最初の「ほぼ全世界が参加した」国際戦争となる。

 最終的にはロシア帝国、第三共和政のフランス、大英帝国の連合国 VS ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国の中央同盟国の争いとなり、同盟関係に基づき大日本帝国と米国が連合国に、オスマン帝国とブルガリア帝国が中央同盟国に加わった。

 大日本帝国陸軍は日英同盟に基づき英国軍とともに、1914年11月7日にドイツ東洋艦隊の本拠地だった中華民国山東省の租借地である青島と膠州湾の要塞を攻撃、そこにオーストリア=ハンガリー帝国の巡洋艦もいたため、ドイツ帝国にもオーストリア=ハンガリー帝国にも宣戦布告して両国艦隊とも簡単に打ち破る。

 さらに大日本帝国海軍は、ドイツ領南洋諸島も占領する。また1917年1~3月に大日本帝国海軍は連合軍の要請を受けて欧州に艦隊を派遣、その見返りにドイツ領山東半島および赤道以北のドイツ領南洋諸島を領有する。

 結局、第一次世界大戦は1918年11月11日に大日本帝国を含む連合国の勝利となり、戦闘のほとんどが欧州で行われたため、大日本帝国はわずかな戦闘参加で戦勝国となり領土をさらに拡大する。大日本帝国にとって初めての「実入りの多い」戦争だったことになる。

 ここからの大日本帝国と満州国の歴史は、次の機会に詳しく書くことにする。