日韓併合と朝鮮半島史  前半

日韓併合と朝鮮半島史  前半


 改めて言うまでもないが日本と朝鮮半島の関係は改善しそうにない。日本が朝鮮半島を領有していた時代があったからである。しかしそこには領有に至った経緯や、日本の統治方法が西欧列強によるいわゆる植民地支配とは大きく違い、後進国だった朝鮮半島を曲がりなりにも発展させた事実が「すっぽり」と抜け落ちている。

 そこで出来るだけ私見を排除し、客観的に公正な事実のみを伝えたい。大変残念なことに、現在に至るまで朝鮮半島だけでなく、日本人や日本のマスコミの中にも「日本は歴史を正しく理解していない」と騒ぎ立てる勢力がいるため、その歴史を正しく伝えるためである。

 今回は李氏朝鮮末期から第一次世界大戦後までを、前後半に分けて解説する。


その1  李氏朝鮮時代の朝鮮半島


 日本の統治時代が始まる前に朝鮮半島を統一していた国家は李氏朝鮮である。李氏朝鮮は1392年に高麗(918年から朝鮮半島を統一していた高句麗の後継国)の武将だった李成桂が高麗王・恭譲王を廃して建国した。李氏朝鮮はそのまま1910年の日韓併合まで518年も存続する。

 李成桂(1335~1408年)は出自がよくわからないが、北方系(たぶん後に満州族となる女真族)だったと思われる。李成桂は明の始祖である朱元璋(洪武帝)をバックにのし上がり、1392年に初代朝鮮国王代理(1401年に正式の朝鮮国王)に封じられ、以来、李氏朝鮮は明に朝貢する冊封(さくほう)体制下に組み込まれる。要するに明の属国となったわけである。

 後年、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(1592~93年、1597~98年)で朝鮮に出兵した時も、冊封する明は援軍を派遣している。ところが当時の明の万歴帝(在位:1572~1620年)は明朝最大の愚帝で、自らの贅沢を優先したため行政府も軍隊も予算不足で人材がいなくなっており、秀吉の無謀な出兵にも明と李氏朝鮮の連合軍は大苦戦する。1598年に秀吉が死に出兵は中止となった。また明も、中国史上最悪の宦官・魏忠賢に食い荒らされてますます衰退し、1644年に滅亡する。

 その後は女真族(のちの満州族)のヌルハチが建国した後金(のちの清)が中国を支配する。李氏朝鮮はそれまでは明より(つまり自分より)格下に見ていた女真族(満州族)に威嚇されて恭順の意を示し、再びその冊封体制下となる。

 李氏朝鮮の国王一族にも朝鮮を発展させる気合など全くなく、明および清の属国としてひたすら自らの体制安定と贅沢三昧だけを求め、鎖国体制を維持する。また貴族階級(両班=リャンバン)が政治に口を出し、ともに朝鮮国民(主に農民・小作人)から年貢や金銭を搾り取るだけであった。従って朝鮮の経済・文化は全く発展せず、首都・漢城(現在のソウル)のインフラは全く整備されず衛生状態も最悪であった。

 李氏朝鮮では1863年に高宗が11歳で第26代国王となるが、幼少であるため実父の興宣大院君が摂政となる。大院君は国王だったことはないが(つまり高宗は李一族でもかなりの傍系だった)、摂政として外戚を廃し広く人材を求めるなど比較的まともな政治を行うが、鎖国は頑なに継続する。


その2  明治維新と日清戦争


 ここで清と日本の歴史において、それぞれ重要な史実と年代を確認しておく。まず清は英国とのアヘン戦争(1840~42年)に惨敗し、1842年に締結された南京条約は香港島割譲などを含む典型的な不平等条約であった。また1856年のアロー号事件をきっかけに、1860年に英国だけでなくフランス、ロシア、米国との間でそれぞれ(もっと不平等な)天津条約を締結させられ、これら各国は清国内の利権を一方的に拡大していく。

 日本では1853年に米海軍のペリー提督が浦賀に来航し、翌1854年に日米和親条約を締結する。そして1858年に日米修好通商条約が締結されるが、これも日本に関税自主権や治外法権のため外国人の裁判権がない典型的な不平等条約である。ここで日本の鎖国政策は終了し、同様の条約が英国、フランス、オランダ、ロシアとも締結される。これら不平等条約は1868年に成立した明治政府にも継承され、新政府はその解消に大変な労力を強いられる。完全な解消は日露戦争(1904~1905年、後述する)の勝利後となる。

 さてそんな情勢の中で成人した李氏朝鮮の高宗は、実父の大院君を遠ざけ放蕩三昧の典型的な愚帝となる。政治の実権は夫人の閔妃(びんひ)とその実家が牛耳る。ところが閔妃の浪費癖はすさまじく、また新興宗教に熱中し(朴槿恵・元大統領もそうだった)国家財政を完全に破綻させてしまう。

 閔妃はそれまでの鎖国政策を変更し開国政策とする。その直接のきっかけは1875年の江華島事件である。漢城(ソウル)を流れる漢江の河口付近にある江華島で測量していた日本の軍艦「雲揚」が、同島に設置された砲台から攻撃されたため交戦状態となる。「雲揚」の艦長は薩英戦争でも活躍したに井上良馨で、わずか22名の海兵隊で500人を超える朝鮮軍を破ってしまう。

 それがきっかけとなって翌1876年に日朝修好条規が締結され朝鮮は開国するが、この条約こそわずか18年前の1858年に日本が欧米列強と締結した不平等条約と「そっくり」であった。当然に李氏朝鮮も同様の条約がアメリカ、フランス、ロシアとも締結させられる。

 ちなみに当時の世界最強国は英国で、次いでロシア、フランス、プロイセン(1871年にドイツ統一)、オーストリアと続く。米国はまだ新興国で内戦(1861~65年の南北戦争)もあり、いったんアジア利権獲得競争から撤退していた。

 朝鮮国内でも開国派と鎖国派の対立が激化していた。この対立に乗じて1882年に興宣大院君(高宗の実父)が、閔妃暗殺、閔氏一族と開国派の排斥を狙った壬午軍乱(じんごぐんらん)で政権に復帰する。しかし閔妃も清の軍人・袁世凱に助けを求めて無事で、大院君の復帰はまさに3日天下となる。この騒動で清は朝鮮内に軍隊を駐留させるようになり、日本も公館が襲撃されて死者が出たため、賠償金支払いと軍隊駐留を認めさせる。これが日清戦争の遠因ともなるが、何よりも軍事力まで他国に頼る李氏朝鮮の国家としての体裁も地に落ちる。

 余談であるがここで登場する袁世凱とは、西太后に取り入るもその死後に裏切って孫文の辛亥革命に加担し、清最後の皇帝・溥儀を退位させるも再び孫文を裏切って中華民国大総統を自称するなど、中国史において最も「信用できない人物」の1人である。徳川家斉に近い17男14女をもうけている。

 話を李氏朝鮮に戻す。袁世凱に助けられた閔妃は再び清を全面的に頼り、政治などに興味のない高宗も自らの保身のためだけに従う。それで再び開国派の不満がたまり、朝鮮国内は対外政策も対内政策も混乱を極め、ついに農民が立ち上がり1894年に東学党の乱となる。

 しかし朝鮮王室は自力で沈静化できない。そこで清に援軍を依頼するが、日本も当然に邦人保護の名目で軍隊を動員し、これが日清戦争(1894~95年)の直接のきっかけとなる。当時も朝鮮は清の属国であるが、その清に西欧列強が入り込んでおり日本に対する警戒を強めていた。

 しかし日本も西欧列強の影響が朝鮮半島にまで及ぶと死活問題になる。そこでロシアの南下を警戒していた英国と1894年に日英通商航海条約を締結する。これは日本の不平等条約が一部(治外法権)だけ解消された条約第1号となるが、日本はそれで英国の黙認を得たとして清に宣戦布告する。高宗は米国公館に逃げ込んでしまう。

 日清戦争は日本軍の圧勝となる。当時の日本は自前の武器(鉄砲)製造能力を備え、西欧の最新の軍事戦略も吸収し、何よりも徴兵制度を整備していたからである。日本は下関講和条約で2億3000万ドル(当時の価値で4億6000万円、日本の国家予算4年分)の賠償金を得て、台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲させる。また清に李氏朝鮮の宗主権放棄とその独立を認めさせた。つまり日本は日清戦争の勝利で李氏朝鮮を1392年の建国後初めて「独立」させたわけである。日清戦争で李氏朝鮮の宗主権を奪ったわけでは決してない。

 ところで日本が割譲された遼東半島は旅順、大連を含む軍事上の要地であるため、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉で清に返還させられる。この要地の支配権が、日本からこれら三国に移っただけである。それで当初2億ドルだった賠償金が3000万ドル加算された。

 清の後ろ盾を失った閔妃と高宗は、今度はロシアに接近する。ロシアの存在は日本にとってますます難物となる。


その3  日英同盟と日露戦争


 南下政策を続けるロシアが朝鮮半島に進出すると日本にとっても死活問題となるため、日本公使・三浦梧楼、朝鮮の開国派、再びの興宣大院君らが結託し、1895年10月8日に閔妃を暗殺する(乙未事変)。実行犯の朝鮮人3名は死刑となったが、三浦は日本国内で嫌疑不十分となり釈放された。日朝修好条約で朝鮮に外国人(日本人)の裁判権がなかったからである。高宗は後年、閔妃殺害は自分の指示だったと吹聴していたが、単に自分の力を誇示したかっただけである。

 高宗はそこからどうしたのか? 依然としてロシアを頼ってロシア公館に逃げ込み、数多くの利権をロシアに勝手に提供する。またロシアと結託して反ロシア派(というより反高宗派)を粛清する。高宗はロシアが自分を大事にする理由は、単に南下政策(冬季に不凍港を確保するため)の一環でしかないことを最後まで理解していなかった。

 さらに高宗は、多くの利権がロシアに奪われる事態が朝鮮国内で危惧される中で「朝鮮国民が自分の復帰を心待ちにしている」と勝手に思い込み、1897年10月12日には何と大韓帝国の成立と自らの皇帝就任を宣言してしまう。

 一方で同じくロシアの南下を警戒する英国は、1902年に日英通商航海条約を発展させて「日英同盟」を締結する。この「日英同盟」の影響は大きく、日本は日露戦争(1904~05年)の開戦さらには勝利に漕ぎつけることが出来る。しかし「日英同盟」は、世界中で勢力を拡大しすぎて影響力維持が重荷になっていた英国にとっても、少なくとも東アジアで日清戦争に勝利した日本との同盟はメリットがあったはずである。当時の英国には、首相や外務大臣を長く務めたパーマストン子爵のような「えげつない政治家」が多数いた。

 日露戦争の目的とは、ロシアの南下つまり満州や朝鮮半島への進出を食い止めることであったが、江戸時代から続く日本とロシアの領土問題解決のためでもあった。ここで本題から少し外れるが、まさに現在まで続く北方領土問題にも関係するため当時の日本とロシアの領土問題を解説しておく。

 まず1855年の日露和親条約で千島列島の領有権が定められ、ウルップ島から北はロシア領、択捉島・国後島・色丹島・歯舞諸島が日本領となった。つまり北方4島はこの時点で日本領であることが確定している。また1867年に樺太は、とりあえず日露両国の共有地となった。ところがそこから樺太にはロシア人の入植者が殺到し、日本人島民との間で衝突が頻発する。

 このまま放置すれば北海道まで手を出されかねないと危惧した明治政府は、失職した武士を全国から募り屯田兵として開拓と守備を担わせる。そして1875年には「千島樺太交換条約」を締結する。要するに樺太はロシア領、千島列島全体が日本領となった。

 ここで面積が7万6400平方キロある樺太と、全体でも1万数千平方キロしかない千島列島の交換は「割に合わない」ように見える。しかしロシア本国に近い樺太は領土保全に莫大なコストがかかり、逆に全長1200キロもある千島列島は軍事的にも領海面(漁業面)でもメリットが大きい。事実ロシアも当初はこの交換に難色を示す。

 そこを締結させた全権公使が榎本武揚である。榎本は明治政府と旧幕府の最後の戦いとなった「五稜郭の戦い」に敗れて投獄されていたが、後に明治政府の海軍中将・駐露特命全権公使に任命されていた。明治政府との戦争責任者である榎本が処刑されなかった理由は、その優秀さと人望を知る(敵として戦った)明治政府軍から助命嘆願が多数寄せられたからである。

 この状態から日露戦争(1904~05年)となる。この期に及んでも高宗ら大韓帝国首脳はロシア側につき、高宗はロシアに密使を派遣して日本側の情報を提供していた。日本は日清戦争で得た賠償金で八幡製鐵所を立ち上げ金本位制(注)に移行していたが、実際はその大半を軍備拡充につぎ込んでいた。領土問題に加えて三国干渉の恨みもあり、いずれ日露戦争は不可避であることを認識していたからであるが、それでも莫大な戦費が不足する。

(注)日本は1897年に金本位制に移行する。金1オンス=4.247ポンド=20.67ドル=41.443円、つまり1ドル=2.005円、1ポンド=9.758円の固定相場であった。当時為替レートを変動させるという発想がなく、為替レート維持が困難になると金本位制の一時停止(金輸出禁止)が繰り返される。

 当時の試算では日露戦争の戦費は総計約20億円で、当時の国家予算の8年分となる。当時の日本政府は既に国家予算の45%を軍事費に充てていたが、それでも4分の3の15億円ほどが足りない。足りない分は日本国内の資本蓄積が遅れていたため外債発行に頼るしかないが、まだ経済後進国だった日本にとっては簡単な相談ではない。当時の各国GDPを単純比較しても、ロシアは日本の7倍、英国は8倍、いつの間にか世界最大の経済大国となっていた米国は15倍もあった。

 その外債募集の責任者は、当時日銀副総裁だった高橋是清である。また当然であるが開戦前に募集することもできない。相手国に悟られてしまうからである。高橋も開戦を待って欧州に飛ぶが、アテにした同盟相手の英国は冷淡だった。さらに開戦となると、その日本国債(外債)の価格が暴落してしまう。相手国ロシアは広大な土地や鉱山を担保に、楽々と戦費を調達していった。

ところでこういう戦時国債は、当時の世界経済を牛耳っていたユダヤ財閥にとって格好の投機対象となる。1815年のワーテルローの戦いでネイサン・ロスチャイルドが莫大な富を築いた話は有名である。ネイサンは伝書鳩を飛ばしてナポレオン敗戦の情報を掴むと、逆に蒼い顔をして英国債を投げ売りして見せ、殺到する売り物をすべて第三者経由で買い集めた。

 そこから89年後の日露戦争でも、米国のクーン・ローブ商会を経営するジェイコブ・シフが大量の日本国債を引き受ける。それに加えて緒戦の鴨緑江の激突で日本軍が圧勝したため日本国債の価格が上昇したこともあり、高橋はようやく予定額を調達することが出来た。しかし高利である日ロ戦争の戦費負債全額を(しかも第二次世界大戦後の大幅な円下落で膨れ上がった外貨負債のまま)返済し終えたのは何と1980年代に入ってからである。シフもロスチャイルドに近く、クーン・ローブ商会は後のリーマン・ブラザースである。

 ユダヤ人のシフは、ロシアでユダヤ人が迫害されていたため(これは事実である)日本を金銭面で応援したともいわれるが、単なる金儲けのためである。ユダヤ系金融機関はユダヤ人迫害より金儲けが大切である。また当時も同時にユダヤ資本はロシアにも戦費を融通して日露戦争に追い立て、結果的にロシア帝国を崩壊させ、革命で社会主義を誕生させて「新たな世界の戦争の芽」を作り出している。日本政府(日本軍)の勇敢さはユダヤ資本に絶好の「金儲けのネタ」を提供したことになる。

 また幕末期に明治政府軍(実際は薩摩藩と長州藩のこと)には英国政府、徳川幕府にはフランス政府が資金を融通して武器を売却し軍事訓練も行っているが、ここでもロスチャイルドなどユダヤ資金は明治政府にも徳川幕府にも双方に戦費を提供して煽った結果が倒幕・明治維新である。どちらが勝っても儲かる仕組みだった。

 さらに余談であるが、日露戦争の後に第一次・第二次世界大戦(太平洋戦争)となる。今回はそこまで書けないが第二次世界大戦の開戦理由の中に、米国在住のユダヤ資本に残債のある日本政府に対し、再び戦争を起こさせることでユダヤ資本が資金回収できるよう当時のフランクリン・ルーズベルト大統領を通じて日本に圧力をかけたことが最大の開戦理由である。ちなみに米国は第二次世界大戦後、敗戦国である日本に賠償金を課さないよう同盟国に働きかけるが、それも当時のユダヤ資本の債権回収を優先するためであった。

 昔も今も(内戦を含む)戦争は最も有利な投資手段であり、今も世界のユダヤ資本は戦争の(内戦を含む)きっかけを作ろうと血眼になっている。現在のロシアのウクライナ侵攻もその典型である。さすがに米中の直接開戦となるとユダヤ資本へのダメージも大きくなるが、中国による台湾侵攻(尖閣を含む沖縄侵攻も同列である)は「ほぼ確実に」起こると考えておくべきである。ユダヤ資本が痛まないからである。

 だいぶ横道に逸れたので話を日露戦争に戻す。戦況は一進一退であったが、日本軍は1905年1月に旅順要塞を陥落させ、同年3月の奉天総攻撃でロシア軍が撤退したため優勢となる。さらに同年5月の日本海海戦で日本海軍が7か月もかけて遠征してきたロシアのバルチック艦隊を30分で壊滅させ勝利を決定づける。結果論であるがこのバルチック艦隊がもう少し早く出発していたら、まだ健在だったロシア太平洋艦隊と合流して、また違った結果になっていたかもしれない。そうならなかった理由は、すでにロシアを支配するロマノフ王朝の勢いが陰り始めており、その指令が迅速に実行されなかったからである。

 ロマノフ王朝のロシアは第一次世界大戦中の1917年、レーニン率いる共産主義勢力(ボルシェビキ)に倒されて消滅する。一方で清も1912年に先述の袁世凱が最後の皇帝・溥儀を退位させ消滅する。

 そして日本は米国と英国に朝鮮支配を認めさせ、日露戦争勝利後の1905年11月17日に朝鮮の外交権を剥奪し、保護国とした。高宗はフランス公館に逃げようとしていた。

 日本は日露戦争後のポーツマス条約でロシアに朝鮮における日本の権利を認めさせ、南樺太を割譲させ、ロシアが清国から得ていた大連と旅順の租借権と、東清鉄道の旅順~長春間支線(いわゆる満州鉄道)の租借権も獲得したが、賠償金は取れなかった。

 実はこの直後の1907年6月、またも高宗は万国平和会議に密使を派遣して日本の権利無効化を働きかけたが(ハーグ密使事件)、既に日本の権利を認めていた列強から全く相手にされなかった。ここに至り高宗はついに退位となり、皇太子・純宗に譲位する。

 1910年8月に李氏朝鮮は正式に日本に併合され消滅する。高宗は朝鮮王族の称号を与えられ1919年に亡くなった。また最後の皇帝となった純宗も朝鮮王族の称号を与えられ、李氏朝鮮の王宮である昌徳宮に住むことが許された。純宗には子供がいなかったが、庶子の多かった高宗の子孫は今も何名か生存している。

ここでやっと日韓併合となるが、ここからは「後半」に続く。