坂の途中

白色と紫色がバランスよく混じり合った美しいその花は、日を重ねるごとに紫色の割合が少しずつ少なくなり、今ではほぼ白い花びらだけになっている。私の背丈ほどありそうなあの花、花というかあの木の名前は何というのだろうか。
外出できる日があれば、あの家のインターホンを鳴らして、家人に尋ねてみたい気もするが、どこの誰かもわからぬ私がいきなり花の名前を尋ねてきたら、警戒されてしまうかもしれない。ましてや私が目の前に佇むこの病院の患者だとわかったら…きっと気味悪がられるに違いない。

鉄格子で囲まれた窓は八つに区切られており、一番上の二つの窓のうち一つは換気設備でもあるのだろうか、ボックス上のもので完全に閉じられている。はんたいの左側の窓には乱雑にガラスの上から紙が張られている。何のためだろうか。
最も下の二枚は擦りガラスになっていて、真ん中にあたる四枚の窓には両面テープの跡が乱雑に残されている。かつて外が全く見えないようにされていたのだろうか。いずれも窓がひどく古いが、強化ガラスになっている。ロックの部分は取り除かれ、一番下の窓と窓が重なる部分には、窓が開かないよう、何かの金具で固定されている。カーテンはない。
部屋の広さは四畳あるかないかといったところだろうか。片側の壁紙は大きく剥がされており、ドア付近には縦十五センチ、横五センチほどの深い穴が開いたままになっている。壁の至る所に糞尿が飛び散った跡だろうか、薄茶色のシミが無数にこびりついている。
手動式のパラマウントベッドと花柄の小さなゴミ箱、そして今この文章を書いている、腰の高さほどある引き出し付きの小さなピンク色のキャビネット、それだけがこの部屋にはある。
ここは精神病院の閉鎖病棟の一室で、私は五月一日からこの部屋に入院している。

精神病院の閉鎖病棟と聞くと、拘置所のような部屋を想像する人も多いかもしれない。そして、さらにそこに入院していると聞くと、暴れたり叫んだり、言葉を選ばずに書くと、いわゆる「狂人」が行き着く場所であり、私もその一人だと思われるかもしれない。
しかし、ここはそんな牢屋があるようなフロアではなく(「保護室」と呼ばれる部屋はたしかに牢屋のようだが)、男性と女性の大部屋が左右にあり、そこの入り口にはテレビや本のある憩いの場のようなスペースになっており、左右の大部屋に挟まれるような形で畳の二~三人部屋が二部屋と、床の個室が四つある。
異性の部屋に行くことは禁止されてはいるものの、廊下は自由に歩くことができ、入院患者同士が立ち話をすることもできる。トイレは四つの個室があり、男女共用である。
その他一般的な病院と比べて大きく違うと思われることは、大声で叫んでいる人がいたり、ひたすら独り言を言ったり、歌を歌っている人がいるくらいだろうか。あとはナースステーションは常にカギを使って出入りするとか、入院患者は許可が下りた人以外はフロアの外に出ることが許されないこと、つまりロビーなどにふらっと行くことも許されてはいないのである。
スマートフォンや電子機器の使用は禁じられている。ほかの精神病院の閉鎖病棟に入院したことがないのでわあらないが、とにかく私が今入院している場所はそんなところである。

閉鎖病棟は一般的に精神疾患をもつ人の中でも病状が重度の人や、多くの介助を必要とする人が入院するところである。だからして、今こうして文章を書いている私もそのような状態なのかというと、全くそうではない。
たしかに精神的に脆くなっている部分があることは事実であるし、薬を飲まなければ眠れないとか、希死念慮があるといったことはあるが、それらが日常的に目立って表出することはなく、入院患者の中ではかなり元気で「普通の人」だと思う。
そのため、本来であれば開放病棟に入院していたと思われるが、私が入院することになったちょうどその日に開放病棟に空きがなかったのか、さらにここからは完全に予想であるが、私が「とにかく休みたい。ゆっくりしたい」といったことを主治医に訴えたために、主治医が閉鎖病棟であっても個室の方がゆっくりできるであろうと配慮してくれたのではないかと思う。
私がみずから個室を希望したわけではなかったため、差額ベッド代は発生しないということだった。

精神病院に入院すること自体が私には初めてのことである。
なぜここまでに至ったかというと、原因を遡れば十年以上前からになってしまうが、一旦そこの詳しい話は省略し、一年ほど前から遡ることにしたい。
私は四年ほど前からとある心理士のところでカウンセリングを受けていた。
理由はバラバラになりそうな家族、というか、破綻している夫婦関係をどうにか再構築できないか、第三者からのアドバイスが欲しかったためだった。
詳しくは割愛するが、当時の夫(今はどうかわからない)は、アルコール依存症の疑いがあり、そのことが大きな原因となり、夫が飲みに行くたびに喧嘩になり、最終的には夫が飲酒を隠すようになり、度重なる説得の末、夫を依存症専門のクリニックに連れて行った結果、精神科医より「身体的依存はまだ見られないが、精神的依存が見られる」と言われたのだった。
そんな夫とどうすれば夫婦関係を修復できるのか、どうすれば幸せに生きていけるのかといったことについて心理士とカウンセリングを重ねた結果、結局は「現在は離婚をせずに別居をする」という方法が一つの答えとなった。当時購入し、古リノベーションして住んでいた中古マンションは売り払い、夫は私と子どもたちがかろうじて暮らせる広さの2LDKの中古マンションを購入し、こちらも自分たちが住みやすいようにフルリノベーションをした。夫が「(私と子どもたちの)近くに住んでもいいか?」と聞いてきたので、その方が子どもたちも行き来しやすいだろうと思い、私は夫が近くに住むことを許した。夫は駅前にある、私たちの家から徒歩10分もかからない場所に部屋を借りた。
そして今、別居を初めてから四年目に突入した。当時幼稚園児だった娘は小学四年生になり、小学二年生だった息子は小学六年生になった。

別居をして、基本的に子どものこと以外はお互いを干渉しなくなったせいか、同居していた時には頻繁に思っていた「死んでくれたらいいのに」「早く離婚したい」といった気持ちは時間の経過と共に少しずつ薄らいでいった。
しかし、子どもたちはまだまだ手のかかる年齢である。夫からは婚姻費用としてマンションの住宅ローンの支払いと、生活費の半分ほどを負担してもらっているが、それだけでは生活できないため、私は以前からフリーランスとして働いているライターの仕事を増やした。
そのほかにも、夫と同居していたころと同じように家事や育児を続けた。唯一私が一人でゆっくり過ごせる日は週末だけで、週末は子どもたちが夫の家に泊まりに行くという日々が続いていた。
ただ、一人でゆっくり過ごすとはいっても、何もせずにゴロゴロしているわけではなく、子どもが学校から帰ってくるような日には終わらすことのできない、ボリュームの多い仕事を片付けることに徹していた。つまり、これといった休みらしい休みはなかった。

夫と別居するようになってからも、心理士とのカウンセリングは続いていた。隔週の時期もあれば毎週の時期もあり、別居や夫、子どもに対する考え方や、思考の癖のようなものが落ち着いてきたころは、月に一回だけ会うこともあった。一回五十分、六千円のカウンセリングを私は楽しみにしていた。なぜなら、心理士にはありとあらゆること、家族や友人にすら話していないことを話しており、さらに普段誰かと話すと私は大抵「聞き役」になってしまうため、自分の話を遮られることなく話せて、その話の中から様々な「気づき」をもらえる時間を心地よいものとして捉えていたのだ。
ただ、心理士からのサポートを受けながらも、私の心の奥底には何か大きな重りのような塊があった。それは良好ではない両親との仲や、他人に素直に甘えられない臆病さや孤独感などだった。
夫との問題が安定してきてもなお、心にブラックホールのような黒い塊を持つ私に、心理士は「精神分析的心理療法」という心理療法を受けてみないかと声を掛けてきた。
それは、毎週同じ曜日の同じ時間に五十分間、自分の頭に浮かんでいることを自由にはなしていき、深層心理へと入り込んでいくといった内容のものだった。
どれくらいの期間がかかるかはわからないが、精神分析的心理療法を受ければ、何十年もかっかってつくられてきた自分の内面が変わり、いきやすくなる可能性がある、という話だった。
内容自体には興味があったものの、毎週同じ曜日同じ時間に同じ場所に通い続け、期間もいつまでかわからないことに私は不安を感じていた。
もちろん、毎週六千円をたった五十分間のために払い続けるという経済的な負担も感じていた。
心理士から最初に精神分析的心理療法の打診をされてから、私は一年以上悩んだ。しかし、何度も心理士から打診をされるにつれて「今受けなければ自分は変われないかもしれない」「何年もかけて作られたこの自分の内面を変えるためには今しかないのかもしれない―」。そんな気持ちになった私は、二〇二三年の一月からその心理士のもとで精神分析的心理療法を受けることにしたのだった。
実際に精神分析的診療報を受けてみて思ったことは、それまで自分が受けてきたカウンセリングとそれほど大きな違いはないということだった。ただ、「先週の話の続き」をするというわけではなく、本当にその時に頭の中にあることを話、そこから話を深堀していくような、そんな感じの時間だった。
それでも毎週心理士と話を重ねていくうちに、様々な気づきがあり、ときに話の内容が深く入り込みすぎてうつ状態になることもあったが、少しずつ物事が良い方向に言っているような、そんな感覚を持つようになっていた。

二〇二四年になり、私は正月番組の占いで最も良い結果であることを知った。その占いには「欲しいものがすべて手に入る最高の一年」といったことが書いてあった。
その占いがまるで本当のことかのように、落とした財布がすぐに見つかったり、好きなバンドのライブでピックを拾ったり、大好きな将棋の藤井聡太さんの対局を生で観戦できたり、精神保健福祉士になるための就労移行支援所での実習がとても楽しかったり、ひょんなことからネットテレビにゲストとして出演して芸能人のような企業な経験をしたり、二〇二四年に入ってからというもの、私にとってはいいことがずっと続いていた。

そんな楽しい日々を送っていた矢先のことだった。私は色々なことが上向きになってきていて、自分が強くなっている気がしていた。かつてのように孤独感を覚えたりすることも減り、「良い状態」になっていると思っていた。「もしかしたらもうすぐ精神分析的心理療法も終わるのではないか」といったことも考えるようになっていた。
「なんだが自分が強くなってきている気がする―」。心理士の前で意気揚々と話していた時だった。心理士がこんなことを言い出したのだ。「強いと思っているあなたは簡単なことで壊れてしまう。そんな状態の時こそ危険―」と。
私は目の前に積み上げてきたもの、つまりこの精神分析的心理療法で心理士と築いてきた信頼感のようなものが目の前で一気に崩されていくような気がした。私は咄嗟に心理士に歯向かうように言った。
「それはどうしてですか?どうして私が良い状態だと思っているのにそのようなことを言うのですか?これまで私たちが積み重ねてきた日々は何だったのですか?」。
しかし、心理士は「今日はもう時間です」と言って私の問いに答えることはなかった。

私はなんだか裏切られたような、そんな気持ちになった。心理士に対してそんな気持ちを抱くことも初めてだった。なぜなら彼女はいつも私の話すことを決して否定することはなく、私が何か筋違いなことを言ったとしても、あくまでも私の味方であり、決してそれほどまでに不快感を強く覚える発言はしてこなかったからだ。

「本日の面談の後半にあなたが離されたことで、私は大きく混乱しています。来週の面談までに、追加で面談の時間を設けてはいただけないでしょうか―」。私は心理士にメールを送った。しかし、心理士は頑なに追加の時間を設けようとはしなかった。
「来週までの時間もまた、あなたの心を成熟させるでしょう―」などという私の混乱を美化するような返信を送ってきたのである。
心を扱う職業として、彼女の対応は間違っていると私は思った。
自分の言葉によって苦しめられているの人がいるのであれば、週一回五十分というルールなど守る必要はないのではないかと。私は怒りに満ちていた。これまで完全に信用し、信頼していた分のプラスの気持ちが、まるでオセロの石をひっくり返すかのようにマイナスの感情へと変わっていった。

「わかりました。じゃあもう死にますね」。私は自暴自棄になっていた。これまでの日々は何だったのか?どうして信頼していた人にこんな言葉を浴びせかけられないといけないのか?もうどうでもいい。死んでしまおうと思った。自分で自分を殺すことによって心理士に復讐しようとした。自分が死ぬことによって、家族をはじめ周囲の人に「そんなにしんどかったんだね」と思い知らせようと思った。子どもたちには悪い影響があるかもしれないが、夫もいるし、もうなるようになるだろうと思った。

私は夫に「もう死ぬね」といったことをLINEで送って、赤ワインで手元にあるありったけの睡眠導入剤や抗うつ剤などを一気に胃に流し込んだ。何十錠、いや、数百錠だっただろう。カウンセリングを受け始めた当初から心療内科に通っていた私には、服用をやめたそれらの薬が大量に手元にあったのだ。
慌てて家に様子を見に来た夫は、まずかかりつけの心療内科に電話をし、そしてクリニックからの指示を受けて救急車を呼んだのだった。
私はとある大学病院の救命救急センターに搬送され、鼻からチューブを通し、そこに吸着剤となる炭と下剤を混ぜたものを入れられ、以前錠をされた。「急性薬物中毒」という診断を受け、一晩救命救急センターでオムツをして過ごした。
翌日、かかりつけの診療内科の主治医への手紙を受け取り、診療費約七万円を支払って翌日には家に帰された。OD((Overdose:薬物の過剰摂取)をして自殺未遂を図っても、まるで何事もなかったかのように世界は回っていくことを身を持って理解した。自分一人の存在など、やはりそんなものなのだと。

心理士にはODをして自殺未遂を図ったこと、もう二度と会うことはない旨をメールで伝えた。ODをして三日後、私は夫と共にかかりつけの診療内科に行き、主治医いに大学病院から預かっていた手紙を渡した。
主治医は「大変な目に遭いましたね。同じ心を扱う職業に就く者としてお詫びします」と言い、その他にも精神分析について懐疑的に思うこともある、といったことを話、少し時間はかかるかもしれないけど、大丈夫だよう、といったことを言っていた。

ODをしてから二カ月、これまで月一回だった受診は一週間に一回になり、次は二週間に一回になった。
私は今となっては心理士に一種の洗脳のようなことをさせられていたのでこもしれないと思った。私が自ら心理士を信用することで、まるですがりつくように救われようとしていたのかもしれない。
毎週同じ曜日の同じ時間に外出しなければいけないという約束がなくなり、私はなんだか大きな緊張会から解放されていた。毎週心理士のものとを訪れることを楽しみのように思っていたが、実hあそれは楽しみとは違っていたのではないかと、我にかえるような気持ちになった。

OD以降、それまでは「死にたい」と言っても「そんなことを言うな」や「じゃあどうすればいいの?」などといった反応をしていた夫だったが、本当に私が死のうとする姿を目の当たりにして、明らかに私に気を遣うようになった。
ほどなくして私は眠剤を飲んでも寝付けなくなるようになり、薬を調整してもあまり効果がみられなくなってしまっていた。

四月になって子供たちは新学期を迎えたが、私は夜布団に入っても三時間、四時間と時間が経っても眠れず、ようやく眠れたと思うと子どもたちの支度のために起こされ、子どもたちが学校に行った後、帰ってくるまで寝ているという日が多くなった。最終的には夫に「眠りたいから朝だけ家に来てもらえないか」と頼んで朝の支度だけをしに来てもらうまでになってしまっていた。
そんな中、幼児期から発達障害の傾向があると言われている娘が私に嘘をつくようなことをしたり、息子の学校でのトラブルなど重なり、私はまた「もういやだ。死にたい」と希死念慮に襲われるようになった。とにかくぐっすり眠りたい。何もしたくないと。

夫は日中眠っていることが増え、さらに死にたいと口にする私を見て「もうとにかく一度しっかり休んだ方がいいよ」と言って、かかりつけの心療内科に電話をし、どういうわけか主治医の携帯番号を聞き出し、私に「とにかく(主治医に)電話で相談してみて」と言った。
私はあまり乗り気ではなかったが、主治医に電話をした。すると主治医はW坂病院という、主治医が別の曜日に勤務をしている病院に来てもらってもいいよ、と言った。その病院は自宅からかなり離れている上にアクセスが悪かったので行くことを躊躇したが、そこまでして何とかしようとしている夫のこともあり、行ってみることにした。

その病院は名前の通りある坂の中ほどにあり、とても古い病院だった。かかりつけの心療内科よりも大きな病院ではあるものの、それほど待つことなく主治医に呼ばれ、私は診察室に入った。
一時間ほどだっただろうか、随分長い間主治医と話した。主治医はおそらくもう七十歳近いであろうベテラン医師だが、過去にフランスに住んでいた時期があるらしく、よくフランス時代の話をする人で、その日もフランスの話をしていた。
そして、話の中で「あなたは治療者の心を惹きつける何かがあるのかもしれませんね」といったことを言っていた。
私は、今の主治医の前の主治医と、恋仲とまではないかないが、治療者と患者の枠を外れた関係になったことがある。そのため、主治医のいったことはあながち間違っていないのかもしれないと思った。

「それで、どうしますか?」と主治医に尋ねられた私は、「できれば入院して少し休みたいです」と答えた。
それは私自らが希望したことでもあったが、半分は夫の強い意向によるものでもあった。「子どおたちのこととか仕事のことはいいから、とにかく今はしっかり休んだほうがいい」と言われていたのだ。

そんなわけで私はそれから三日間ほどで四月分と五月初旬の分の仕事を急ピッチで片づけ、二〇二四年五月一日よりおよそ三カ月までをめどにこの坂の途中にある精神病院に任意入院することになったのである。

昨日は四十三歳の誕生日だったこともあり、初めて一日外出許可をもらい食事や買い物をしに出掛けたが、病院に戻ってくると酷く疲れている自分がいることに気づいた。

都合をつけて入院をしたとはいえ、私はフリーランスのライターなので、仕事を断ることはなかなか容易ではない。いくらかの貯金はあるものの、いつまでも休んでいるわけにもいかないし、夫の仕事への負担も気になるし、子どもたちの食生活なども気になるので、おそらく一カ月で退院をするだろう。現にもう六月の仕事の予定も入ってしまっている。

ただ、入院して今日で十二日目。もうすっかりびょいんの生活に慣れ、安心して毎日を送ろうといしている自分がいることもわかる。
病棟内では絶えずどこかから怒鳴り声や叫び、歌声、独り言などが聴こえてきて、奇行に走る人もも時折見かける。意識があるのかないのか、何を話しているのかわからない人も多い。しかし、精神保健福祉士の資格取得を目指す私にとってそれらの人々は興味関心の対象であり、嫌悪感ではない何か別のものを感じる。
そして非常に奇遇であるが、九月から私に資格取得に向けた実習のためにこの病院に実習生としてお世話になることになっているのだ。
そんなこともあり、はっきり言って今は休養をしているという気持ちと、観察をして楽しんでいる気分が入り混じっている。
スマートフォンも使用制限があり、ほかにもお金の遣い方やお風呂が週二回しか入れないなどの様々な不自由はあるが、房総してODをしてしまう心配もなく、夫もどうにかこうにか生活を回せているようなので、私も安心した時間を過ごせている。
また、主治医のつけた診断名は「抑うつ神経症」という聞き覚えのないものだが、病院の中でゆっくり休んでいいという権利を与えられた私は安心して、夜もすぐに眠れるようになっている。

夫と別居をし、ほぼシングルマザーのような日々をあわただしく過ごすことも、精神分析的新利用法を途中でやめてしまったことも、今ほとんどのことを投げ出して入院していることも、正しいのか誤っているのかはわからない。
今自分が坂の途中にいることはわかるものの、坂を上っているのか、下っているのかもわからない。坂を上った方が楽になるのか、下った方が楽になるのかもわからない。
でも確実にわかることは、私たちの多くはきっといつも坂の途中にいるに違いないということだ。
一度上った坂を下って、来た道の景色を確認してみても、なるべく荷物を軽くして上っても、途中で休憩したっていいだろう。時には上ってきた道を思いっきり下って風を感じていみるというのもいいかもしれない。

鉄格子の窓の外はもうすっかり暗くなってしまった。あの花は明日はもっと白くなっているだろうか。坂の途中に咲くあの花は。

二〇二四年五月十二日

#創作大賞2024   #エッセイ部門


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