「生きづらさ」を描きたい、ということについて
ちょっと今日沢山更新しちゃってますね。
これで3本目ですか?
一日に5本投稿したらおもちゃのカンヅメ的な物くれたりしませんかね。
どうでしょうか、noteさん。
ダメですか、そうですか。
頂いたコメントにお返事をと思って書いていたんですが、書き始めたら止まらなくなってしまい、noteに
「コメントは500文字以内にしてください」
と怒られましたので、テキストとして残しておきます。
や、あんま目新しいことは言わないと思います。
もしかしたら、僕よりも年上だったり人生経験が豊富な方だと
「そんなとこはとっくに通り過ぎたしな」
なんて仰るかもしれません。
なので、これはもしかしたら、僕が「どうして脚本を、小説を、文章を、物語を創るのか」という軸の部分を忘れないようにするための、自分のための備忘録かもしれません。
前置きが長くなるのは僕の悪い癖ですね。
でも、実はこの「前置きの長さ」もこの後の話に関係があるかもしれません。
僕は、言葉で他人に本心を伝えることは決してできないと思っていて。あるいは言葉以外でも。
今、「私」にある気持ちが生まれたとして、それを「あなた」に伝えるとして、「私」の言葉や行動はそれを正しく伝えられるように「編集」されて表出します。
その言葉や行動を受け取った「あなた」は、それを元に「私」の気持ちを「解釈」しようとします。
だから、初めに「私」の中に生まれた気持ちは、都合2回(最低でも)、ある種「歪め」られるなあ…と思っていて。
だから、理屈で言えば、自分の「本心」をそのまま伝えることって、実質不可能なんだなあって。
「そんなつもりで言ったんじゃないのに」だなんて、人生で何回も何回も思うことだと思うんですね。誰しも。
僕なんてまだ25年しか生きていないんですが、そう思う方が多いくらいです。
まあ、自分に関してはもしかしたらそもそも伝え方が悪いのかも、とは思うんですけれど。や、僕個人のことはまあ、この際いいんですが。
「本心」を伝えることが、じゃあ不可能だったとして、絶望するしかないのかと言えばそうではなくて。
きっとみんな、自分なりに折り合いをつけたり、それでもつけられなかったり、色々あって。誰かと出逢って、やっぱり想いは上手く伝わらなくて、それでもまた誰かと一緒になって、行ったり来たりしながら。
そこに僕の言う「生きづらさ」があるのかなあって。
そうやって「生きづらさ」を抱えながら前を向いたり後ろを向いたりして生きている人って、美しいと思うんですよね。そういう、美しい人の姿を描くことって、きっと希望になると思うんですよね。
だから、正しく言うなら「生きづらさ」を描きたいんじゃなくて、生きづらさを抱えながら、傷ついたり悲しんだり、嬉しかったり喜んだりしながら生きている「人」を描きたいっていう感じです。
創作が人を変えられるだなんて、僕は微塵も思っていなくて。
偉大なる天才ならまだしも、僕のような凡人では、特に。
でも、もし誰かが。
明日からもきっと消えない「生きづらさを」抱えて傷つきながら生きていくけれど、自分も世界も何も変わってはくれないけれど、
「まあ、今日くらいは生きてみるか」
って思ってくれたなら、それが僕が創作をする意味になるのかなあ、そうなれば良いなあって思っています。
ああ…11月の公演の「あとがき」でも思ったことですけれど、また遺書みたいな文章を書いてしまった。
あ、ちなみに、僕の前置きが長くなってしまうのは、今言ったような思想を持っているからして、なるべく僕の「本心」に近い言葉を正しく伝えたいからなんですね。
前提から理解して貰って、どういうことが言いたいのかが正しく伝わって欲しいからなんですね。
どうでしょうかね。
「そういうつもりで言ったんじゃないのに」
ってならなければいいな。
はい、伏線回収です。ありがとうございました。(どういう終わり方?)
おまけ
この投稿の(勝手な)イメージソングは
日食なつこ『Fly-by』
です。
「おー、面白いじゃねーか。一杯奢ってやるよ」 くらいのテンションでサポート頂ければ飛び上がって喜びます。 いつか何かの形で皆様にお返しします。 願わくは、文章で。