悲しみの走れコウタロー下町キッズの1974モータリゼーション
1974年頃下町の問屋街にはモータリゼーションの波が押し寄せていた。当時はまだ運送会社による宅配も集荷もちろんクロネコもペリカンも見る影も無かった。
当時の長距離物流の主役はまだ鉄道貨物
問屋が商い(仕入れと納品)をするには、自家用の軽トラックでJRの貨物集荷場所隅田川駅などに荷物を取りに行き、荷物を商品に仕上げてその商品を取引先や同じ貨物集荷場に持っていくのであった。
僕は毎日のように助手席に乗せてもらい短いドライブを堪能していた。
当時よく街中を走っていたオート3輪トラックはバランスを崩すと簡単にひっくり返るので貨物荷受け場近くではよく横転していたそうだ。我が家の軽トラックは四輪だった。
残念ながら僕に転倒したオート三輪を見た記憶は無い・
当時は下町も日本経済の高度成長の恩恵を間違いなく受けていた。
一億総中流と言われた時代の幕開け期である。
その恩恵は自家用車と四六時中渋滞する道路とピアノ教室という異形の文化を下町にもたらしていた。当時の渋滞緩和策の名残で、交通量も問屋も減った今でも下町は幅広で一方通行の道路が多いのだ。
さて、その2つの文化の交差点で我が家を待っていたのは兄の交通事故だった。
お手伝いさんに手を引かれてピアノ教室に向かった兄と僕は大通りの横断歩道を信号に従って渡り始めた。
兄は繋いだ手を振り解きちょこちょこっと僕の前をを走り出し目の前で左折してきたトラックに引っ掛けられたのである。
尻もちをつくような形で道路を転がる兄の姿を僕は今でも覚えている
でも兄は見た目に大した怪我もなくまるで何事も無かったかのように立ち上がりいたって元気だった。
その様子を観たトラックの運転手はそのまま行ってしまったくらいだ。
僕の記憶が確かならば、救急車も呼んでいない。
運動神経がよく活発だった兄は近所の畳屋の職人さんに自転車を借りて乗り回し、その畳屋の隣の牛乳屋の店頭に突っ込むなど武勇伝がつきなかった。しかし兄の交通事故を受けて我が家には自転車禁止令が発令された、その煽りをくって僕は自転車を買ってもらえなかった。
下町キッズにとっての身近なモータリゼーションと言えば今も昔もチャリンコだ。まあ、モーターもエンジンも無いけれどね。
その時期 下町キッズが憧れたモータリゼーションと言えばバイクに乗る仮面ライダーと、四輪と言えば軽トラックではなくてマッハ号。
キッズはバイクは年齢的にももちろん無理。そこでキッズの人気の自転車は多段変速付きで、角形ダブルのヘッドライトに流れるテールライト(フラッシャー)がめっちゃ格好いいセミドロップハンドルのスポーツタイプだった。その自転車でヒーロー仮面ライダーになりきって街中を走ることそれが好景気の風が吹く下町キッズの憧れだったのである。
学校が終わったらキッズは皆自慢のフラッシャーつきテールライトの自転車に乗って当時は蔵前にあった国技館に乗りつけて丸い国技館の周りをぐるぐる走り回っていた。
我が家の謎仕様は自転車は買わないけれど自転車には乗れるよう練習はするでも自転車は禁止というものだった。
練習は主に父の車で神宮外苑で行われていた自転車教室で行った。父が運転する車はトヨペットコロナマークⅡ。
商売をやっていた我が家は羽振りもよくて当時のサラリーマンが憧れたカローラ、サニーといった車よりもグレードの高い車を所有していた。
でも流線型のマッハ号じゃない。コロナは速くも格好よくも無いし決して高くびよ〜んと飛び跳ねたりしない。(笑)それ故家にコロナはあったけれど僕に満足感があったわけじゃない。
謎仕様のおかげで自転車には乗れるようになっていた僕は実は親に内緒でこっそり禁を破りと友達から借りて自転を借りて乗っていた。
キッズは仮面ライダーになりきってライダーキックを繰り出すときは自転車を降りるから自転車が空くのだ。
しかし、友達が移動する時借りる自転車は無い、だから僕は半べそをかきながら颯爽と走っていく友達の自転車の後を涙目で走って追いかけるのであった。どんなに頑張ったって自転車より颯爽と走れるわけはなく走れば走るほど切なさが募るばかりだった。
僕はこの切なさを母親に訴えて同情を買う自転車が欲しい作戦にも出たけど、事故にあった兄は忘れた頃に事故の後遺症が出て、結局その後も自転車を買ってもらうことはなかった。
当時の下町キッズの僕の記憶にあるモータリゼーションは、軽トラックと自転車のリアビューそれと当時流行していた走れれコウタローの切ないメロディなのである。この満たされない切なさは10年後にスポーツタイプの原付きとその後のオートバイいう形で実を結ぶのではあるが。
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