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見習与力から筆頭与力へ

 文化十二年(1815)、町奉行北組の見習与力高橋鉄次郎は五番組の筆頭与力だった父八郎右衛門の明跡あきあとに入ると、まもなく同心支配役、すなわち筆頭与力に任じられた。筆頭与力といえば、指揮官たる町奉行(頭)の下で、三十人ほどの部下(組与力同心)を束ねる分隊長(組頭)の役割だ(※1)。年功序列が徹底する社会で、父の跡を継いで見習から本勤ほんづとめになったばかりの鉄次郎がどうしてなれたのだろうか。もちろん理由わけはあった。このとき、鉄次郎は見習になって、はや四十一年。来年には還暦となる、ベテラン与力だったのだ。父の次席だった松原伴右衛門の勤務年数は鉄次郎の半分にも満たなかったし、四人いる他の組の筆頭与力にしても、鉄次郎よりもキャリアが長いのは一番組の都筑兵右衛門と四番組の松浦弥二郎の二人だけであった。鉄次郎が見習与力になったころは、松浦もまだ見習であった。二番組の島喜太郎と三番組の中島三郎右衛門はともに五十二歳で、キャリアも鉄次郎より短かった。鉄次郎の父八郎右衛門は寛政三年(1791)にはすでに五番組の支配役になっていたから、晩年には見習とはいいつつも鉄次郎がその補佐役として実質的な支配役を務めていたに違いない。では、そんなベテラン与力がなぜずっと見習のままであったのか。もちろん、それにも理由はあった。
 町方与力は抱席かかえせきといって、一代限りの身分であったから、譜代席の御家人とは違って、隠居して家督を子弟に譲ることは認められていなかった。辞めれば身分を失い、浪人たらざるをえなくなってしまう。だから、子弟に跡を継がせるためには、働けるかぎりは現役でありつづけるほかなかった。そうすれば、父の跡に子弟が入れられた。父親がいつまでも元気でいることは喜ばしいことには違いなかったが、当主である父が何らかの理由(※2)で職を辞めないかぎり、その子弟は部屋住の身の上から脱することはできない。したがって、見習与力でいるしかなかったのだ。喜ばしくも悩ましい鉄次郎の気持ちが思われなくもない。
 そうはいっても、見習与力からいきなり筆頭与力になるケースはさすがに珍しいことではあっただろう。同じ組の与力たちははるかに年長の見習鉄次郎と一緒だと、彼らの方が見習与力に間違われることもあったかもしれない。そんなことを想像すると、ちょっと可笑しくもある。
※1)すべての組与力同心(見習を含めて、150~180人ほど)は一~五番までの番組に所属していた。それらの組頭格が筆頭(支配役)与力である。したがって、南北各組に五人ずつ、あわせて10人の筆頭与力がいたことになる。
※2)本人が死亡したり、病気や老衰で勤務が困難になった場合、あるいは業務上の失態等により処罰を受ける場合など

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