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北町奉行所の「北町」とはどこか

 江戸に「北町」なんていうところはどこにもない。だとしたら、「北町」とはいったい何なのか。
 身も蓋もない話ではあるが、江戸城の東にある官庁街(大名小路。いまの丸の内エリア)の「北」寄りに番所(役所)があった町奉行だから、「北(の)町」奉行というわけだ。「町」は場所ではなく「職(町奉行)」を意味している。
 番所がそれより南にあれば、「南町」奉行と呼ばれたし、町奉行が三人いた時代(注1)には南北両番所のあいだにあった番所の頭(奉行)は「中町」奉行と呼ばれた。
注1)元禄十五年(1702)に丹羽遠江守とおとうみのかみ(長守)が三人目の町奉行になり、享保四年(1719)に坪内能登守(定鑑)が辞任するまでのあいだ。その後、能登守の後任は置かれず、再び町奉行両人制に戻った。

 寛永八年(1631)以来、二人の町奉行が常盤橋門内の旧北組と呉服橋門内の旧南組をそれぞれに率いていたが、元禄十一年(1698)の勅額ちょくがく火事により旧南組はさらに南の鍛冶橋門内に移転する(図1)

図1)旧南組の移転

 元禄十五年(1702)、丹羽遠江守(長守)が三人目の町奉行となり、鍛冶橋の北西(呉服橋の南西=同大手通)に役宅を与えられた。南北両番所のあいだにあったことから、この新組の番所は「中町」奉行所と呼ばれるようになる(図2)

図2)中町奉行所の誕生

 宝永ニ年(1705)の御林武鑑(図3)では、北から「ときハはし内」の松野組(旧北組)、「こふく橋大手通」の丹羽組(新組=旧中組)、「かぢはし内」の坪内組(旧南組)となっている。

図3)宝永ニ年(1705)御林武鑑

 その後、宝永四年(1707)の火事で常盤橋門内にあった松野組(旧北組)は数寄屋橋門内に移転し、その番所は幕末まで「南町」奉行所と呼ばれるようになり、これにともなって、旧中組(新組)は「北町」、旧南組は「中町」となった(図4)

図4)北町奉行所が南へ

 正徳四年(1714)の正徳武鑑(図5)では、北から「呉服橋大手通」の丹羽組(新組=北組)、「鍛冶橋内」の坪内組(旧南組=中組)、「数寄屋橋内」の松野組(旧北組=南組)となっている。

図5)正徳四年(1714)正徳武鑑

 享保ニ年(1717)、呉服橋大手通(鍛冶橋の北西)にあった中山組(新組=北組)がさらに北の常盤橋門内に移転し、同四年(1719)には鍛冶橋門内の坪内組(旧南組=中組)が廃止となった(坪内の辞任後、後任なし。以上、図6)

図6)中町奉行所の廃止

 享保ニ年(1717)の享保武鑑(図7)では、北から「ときワはし内」の中山組(新組=北組)、「鍛冶橋内」の坪内組(旧南組=中組)、「すきやはし内」の大岡組(旧北組=南組)となっている。

図7)享保ニ年(1717)享保武鑑

 その二年後の武鑑(図8)では、北から「ときワはし内」の中山組(北組)、「すきやはし内」の大岡組(南組)となっており、南北両町奉行制に復していることがわかる。

図8)享保四年(1719)享保武鑑

 その後、文化三年(1806)には車町くるまちょう火事により常盤橋門内にあった小田切組(北組)が呉服橋門内に移転し、その番所は「北町」奉行所として幕末までつづいた(図9)

図9)幕末までつづいた南北両町奉行所

 町奉行所の所在地の遷移をまとめると、図10のようになる。

図10)町奉行所・所在地の変遷

 奉行所の所在地を江戸切絵図の大名小路の絵図に書き入れると、図11のようになる。

図11)町奉行所の所在地

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