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猫と愛してるのあ 第8話

 静かな日曜日だった。遅く起きて二人でブランチに出かけた。例のギンガムチェックのテーブルクロスが掛かった洋食屋である。
「ねえ。何か静かじゃない?」
 尋ねても真生は答えず、二人前のナポリタン付きハンバーグランチを注文している。
「ビール頼もうよ」
「後でドライブをしようかと……」
「俺が運転するからさ。真生さんは呑むといいよ」
 と言ったのは、真生がグラスにビールを注ぐ姿を見たかったからである。そして運ばれて来たビールを真生は神妙にグラスに注ぎ、口に運ぶやこの上もない幸せそうな顔になる。それを見つめているあぐりも多分幸せそうな顔をしていただろう。
「病院の呼び出しがないからだ」
 自分の問いに自分で答えたのはハンバーグランチを食べながらだった。やはり真生は答えずに、ビールの追加を注文している。
「ねえ。珍しいね。いつも一緒にいると真生さんて必ず病院に呼び出されてたもんね」
「もう病院は辞めたから」
「え……何で?」
 尋ねるも真生は二本目のビールを随分と早いピッチで呑んでいる。
「ねえ」「何で?」と何度か促すと今度はハンバーグランチの成敗にとりかかる。
「ねえってば! 何で辞めたの?」
 声を荒げると、じろりと睨まれる。
「あっちゃんから何の連絡もなくて、スマホは通じなくなるし、手紙を出しても返事もない……」
 と腕を組んでしまう。いつになく健啖に食べているのはあぐりで、真生はまだ皿に手をつけたばかりである。
「やっと会えたら、あんなこと言われるし……」
「だから、ごめんてば。あの時は悪かったよ」
「……ふられたんなら、どうせ一人なら、前からやりたかったことをやろうと思った」
「何をやりたかったの?」
 とうとうあぐりは先に皿を空にしてしまう。真生の皿に残っている料理を示して「食べて」と促すのは、常とは逆である。真生は思いついたようにフォークでスパゲティをかき回しながら、
「海外青年協力隊。産婦人科医として参加する」
「ふうん?」
 あいづちを打ちながらも何か辻褄が合わない気がする。
「海外に滞在するのは二年間だけど、事前に国内で教育期間もある。どうせなら勉強とか旅行とか、これまで出来なかったこともやろうかと思って早めに仕事は辞めた。当分は貯金で食いつなぐ」
「え? いや、だって……」
 戸惑うあぐりを前に、ようやくスパゲティをわしわしと食べ進む真生である。本領発揮。というか打ち明けてほっとしたような風情である。
 逆に意味が飲み込めてあぐりはにわかに怒りに駆られた。
「何だよ、それ! 二年間海外に行く? 一緒に住むとか言ったくせに」
「出発は来年だから、今年はまだ一緒に暮らせる」
「……ありかよ。そんなの」
 呆れて声も出ない。
「男は失恋したら海外に行くんだよ」
「そんなの聞いたことない。別に俺はふってないし」
「今更言うか。あの時、玄関で怒鳴られて私がどんなに……風邪で苦しかったのに……」
「忘れたって言ったくせに」
 と底意地悪く蒸し返す。真生は黙って皿を空にしている。時々手で目を擦っているのは、涙を堪えているらしい。そうだった。凶悪顔のくせに真生は涙もろいのだ。
「私は一人で海外に行くと決めたんだ。なのにまた、あっちゃんとこういうことに……」
「じゃあ、また別れる?」
 言った途端に真生の瞳から怒涛の涙があふれ出て来た。
 華厳の滝だかナイアガラの滝だか知らないが、両手で顔を覆っても嗚咽は隠せない。あの時玄関で泣き喚いた自分の醜態を、今になって眼前に再現されている気分である。
 さすがに周囲の客が興味津々で様子を伺っている。ため息まじりにポケットからスマートフォンを出して文字を打つ。
 真生のポケットでスマホのバイブがぶぶぶとなる。挑むように涙で濡れた目であぐりを睨むと、真生は殊更ゆっくりとスマホを出した。
〈泣くな。別れない。何年でも待つ〉
 あぐりのLINEに既読がつくと同時に、真生の表情が晴れ渡った。何だか妙に忌々しい。〝何だこの台詞は〟第三段を発動してしまう。
〈あっちゃんのあは?〉
 と畳みかける。真生は、
〈愛してるのあ〉
 と返してスマホを閉じた。 

 ランドローバーの運転席に座る。真生との身長差の分だけ座席を前に出す。そっとハンドルを撫でてから、キーを差し込み軽く回す。心地良く腹に響くエンジン音。悪くない。大切に乗っているのがわかる。
 助手席でシートベルトを着けながら真生は、
「何だ、その目つきは?」
 と、あぐりを横目で睨む。
「目つきって何が?」
 真生こそ号泣した上に酔っているから、とろんとした土偶の目つきのくせに。ビール二本で酔うなど真生にしては珍しい。
「そういう顔は私とやる時だけにしろ」
「何だそれ?」
「車とセックスしてるみたいな顔するな」
「意味わがんね。行くぞ」
 と一気に車を発進させる。力強くも滑らかな推進力。わくわくしながらランドローバーを真柴方面に向ける。
 トラックほどではないが四輪駆動の車も少し視界が高い。本城から真柴へ向かう慣れた道が広がっている。春になって空気が温もっているせいか、景色がふうわりと柔らかく見える。
「でも何で四駆なの? 真柴本城じゃ必要ないでしょう」
「山行するから」
「さんこう?」
「登山」
 思わず顔を真横に向けてしまう。酔っ払いは半分眠りかけている。
「真生さんて、登山するの?」
「うん……海外に行く前に……日本アルプスを縦走する」
「そんなの聞いてない!」
 何故かまた大声を出してしまう。
 酔っ払いは完全に寝息をたてていた。
 あぐりは口惜しくてたまらない。真生が山登りをするなんて全然知らなかった。自分は田上真生のことをまだ何も知らないではないか。身体を重ねただけですっかり知った気になって。なのに海外に行ってしまうなんて。
 何だよそれは!
「俺も行くからな! その日本アルプスとか」
 と捨て台詞のように言うのだった。

 真柴川元の実家に近づく。月極駐車場の看板の先に見えるのは灰色のシートである。以前の仮囲いとは異なり防音効果のあるシートが、鉄骨で形作られたマンションを完全に覆っている。
 黙って風景を見ながら通り過ぎ、人気のない道で車をUターンさせる。改めて実家の前で停車すると、助手席の真生越しに防音シートを眺めた。
「家は全部なくなったんだな」
 居眠りをしていると思った真生が言った。
「うん。八階建てマンションが建つ。大吉マンションだってさ」
 と頷くと、灰色のシートでしかないマンション用地の一角を指差した。
「この先……婆ちゃんが死んだ場所は、マンションの玄関になる。そこには花壇を作って、婆ちゃんの好きだった花を植えるんだって」
 婆ちゃんの終焉の地はとりもなおさず二人のファーストキスの場所である。追悼のキス。そんな言葉はあったろうか。
 バックミラーやサイドミラーを見る。真柴の田舎道には人も車も気配はない。
  助手席に身を乗り出し肩に手をかけ、そっとキスをする。
  真生の瞳はまた涙で潤んで来る。睫毛の涙を指先で拭ってやる。
「お婆ちゃんは何の花が好きだったの?」
 と訊かれてあぐりは何も答えられない。婆ちゃんで思い出すのは仏花ぐらいである。菊だらけの花壇。あり得ない。
「真生さんは? 何の花が好き?」
 今のうちに日本にいるうちに、もっと真生のことを知らなければ。
「チングルマ」
「はい?」
 何かとてつもない下ネタを考えてしまう。〝チン〟に〝グルマ〟だと?
「稚児に車で稚児車。続けて読めばチングルマ。夏山で見せてやるよ」
「うん!」
 今度は真生に引き寄せられて、また唇を合わせる。
 あぐりは車を発進させながら考える。今、真生の唇は「好きだ」と動いたような気がしたが、さてどうだろう? 

   エピローグ 

 薄暗がりにぼんやり人影が見える。
「あっちゃんがいないよ。誰かあっちゃんを知らないかい?」
 婆ちゃんが悲し気に呟いている。あっと思い起き上がろうとするが、背中が強い磁力か何かで寝床に貼り付けられている。身動きがとれない。
「あっちゃんがどこにいるか知らないかい?」
 その声に誰かが答えている。「うにゃん」と聞こえるのはまるで千代の声である。
「うにゃん。あぐりなら真生と一緒にいるよ。みゃうみゃう」
「真生? ああ、田上真生さんかい。あの産婦人科のお医者さんだね。優しい人なんだよ。あっちゃんはお友だちと一緒なんだね」
「毎晩さかってばかりだよ。みゃーみゃーうるさくて、たまったもんじゃないよ」
 婆ちゃんに何を告げ口してるんだ。背中が磔になったまま赤面する。
「でも今、真生は外国にいるんだよ。あぐりはひとりぼっちさ」
「どういうことだい。田上さんはあぐりを置き去りにしたのかい。ひどいじゃないか」
 そうじゃないよ。真生は海外青年協力隊でアラブ某国に行っただけだ。別に置き去りにされたわけじゃない。あぐりは背中が動かないままに口だけぱくぱくさせるも声は出ない。
 代わって千代のような三毛柄の影が伸び縮みしながら言うのだった。
「大丈夫さ。真生は日本に帰って来る。私も待っていた甲斐があるってもんさ。みゃうみゃうみゃうあ」
「なら、よかったよ。田上さんはずっとあっちゃんと仲良しなんだね。あっちゃんが幸せなら、私はもう思い残すことはないよ」
 薄暗い中に遠くからほの温かい光が差している。婆ちゃんのシルエットがその光に向かって、ひたひた歩いて行く。歩いて行き、小さくなって……にゃーにゃみゃうみゃうと猫の声がうるさくて目が覚める。
 黒猫ロブが鳴きながら、頬を軽く叩いている。伸びた爪が少しちくちくする。
 恐る恐る上半身を起こしてみる。背中の磁力と思えたものは消えており、難なく身体を起こす。
「朝……朝飯?」
 細く開いた襖から薄明りが入って来る。
 居間の障子に明け方の光が届いているのだろう。まるで婆ちゃんが消えた夢の先のようにも見える。けれど温もりはなく、漏れてくるのは現の冬の冷気である。
 婆ちゃんの夢は久しぶりである。ずっと一人で寝ていたから夢に現れるのは真生が多かった。
 だが間もなく現実の真生に会えるのだ。じき日本に帰国する。そうなると現金なもので夢の出演者は婆ちゃんに戻っているのだった。
 寝室にはツインベッドを並べてある。シングルベッドに二人で寝て何度か落ちた結果の選択である。ダブルベッドではどちらも落ち着いて眠れないからツインにした。
 ロブはあぐりのベッドから隣のベッドに歩いて行く。今はマットレスをシーツで覆っただけの真生のベッド。これも近いうちに布団を干して寝られるように整えなければ。
 うきうきと起き上がって居間で猫たちの朝食を用意する。三毛猫千代と黒猫ロブ。
 一時この家で暮らしていたトラ猫は、真生が海外に出立すると同時に家には現れなくなった。三田村さんが言うには空き地の餌場には現れているから、またどこか別の家で世話になっているのかも知れない。

 あの本城コンサートホールでの再会後、間もなくあぐりは足軽運送を辞めた。月島の社員寮も退去してここに引っ越して来た。
 真生との蜜月は、千代の文句を認めるにやぶさかではない。毎晩みゃーみゃーさかっていた。二年間会えなくなると思えば毎晩でも肌を合わせずにはいられなかった。
 日本アルプスにも連れて行ってもらった。上高地、蝶ケ岳、常念岳に一ノ沢と二泊三日、山小屋に泊まりながらの行程だった。学生時代に真生が山岳診療所でアルバイトをしていたという話も聞いた。
 だが久しぶりの山行で真生は息が上がりがちだった。どちらかといえばあぐりの方が健脚だった。配送ドライバーをなめんなよと得意満面だった。
 あいにくチングルマは咲いていなかったが、高山植物の女王といわれるコマクサ、イワカガミ、トラノオなど様々な花を見た。

 何も二人で遊んでばかりいたわけではない。あぐりは引っ越し会社を起業した。婆ちゃんと母親の遺産で中古の二トントラックを購入したのだ。
 とりあえずこの家を事務所として、トラックは実家の月極駐車場に停めてある。当初はマンションが完成したら事務所もそちらに移転するつもりだった。
 今やもうマンションは完成しているのだが、部屋はまだ何もなく単なる休憩室に使っている。事務所移転は真生の帰国待ちである。何しろ取締役に名を連ねているのだから。
 菅野老人の指導あってこその独立だった。真生や里生の優秀な頭脳が身近にあるのもとても助けになった。けれど取締役に名を連ねるという申し出は断っていた。迷惑をかけるのを恐れたのだ。
 だが田上兄妹は例の間髪を入れない早業で登記を済ませ、役員に納まっていた。正直あぐりには同棲よりも何よりもこれが最も嬉しかった。
 爺ちゃんと婆ちゃんが大吉運送を興したように、あぐり引越社はあぐりと真生が興した会社なのだ。やっと本当の家族になれた気がした。
 いつか欅の一枚板のテーブルを注文しようと目論んでいる。そうなれば、それが置ける広さの社屋や自宅も必要になる。夢は広がるばかりである。
 まほろば運輸の及川さんが社員に加わったのは、真生が旅立った後である。あぐり引越社は現行篠崎社長と及川社員の二人体制である。

 そうして、あれから三年。この春アラブの国から真生が帰って来る。あぐりはもう足が地に付かない程の浮かれっぷりである。毎日のように仕事はもとより、真生を迎える準備にも走り回っている。猫たちも元気である。
 食事を終えたロブは居間の棚に飛び乗って刺し子のクッションで休むのが常である。そこまで歩いて行く途中で何枚かの写真立てのうち一枚だけを必ず倒して行く。あぐり以上にこの写真が気に入らないらしい。
 猫は実に器用である。仮に室内にドミノ倒しが仕掛けてあっても、コマのひとつも倒さずに歩ける習性をもっている。なれば狙った写真の一枚だけを倒すのもお手の物だろう。
 ため息まじりに写真立てを直す。実のところ、あぐりはこれを引き出しの中に隠してしまいたいが、真生は連絡してくる度に「写真は飾ってる?」と確かめる。
〈私は毎日写真のあっちゃんに挨拶してるぞ〉
〈はい。そうですか〉
 と返したくなる偉そうな言い方(いやLINEだが)である。「だからおまえもそうしろ」と言いたいのだろう。
 もともと高圧的な物言いをする男だったが、以前よりそれが目立っている。政情不安な任地での緊張感がそうさせるのかと少し心配である。
 かの国では男性は髭を生やすのが当然の風習だそうで、今は鼻の下も顎下も髭に覆われているという。だが決して写真は送って寄越さない。
 空港に迎えに行っても髭だらけの真生など見つけられやしない。それもまた心配のひとつである。

 いや写真立ての話である。黒紋付を着た真生とあぐりが神社を背景に並んで立っているものである。あぐりにとっては思い出すのも恥ずかしい既に黒歴史と化している神前結婚式である。
 一緒に暮らせるだけでよかったのだ。男同士で結婚式など珍しいことはしたくなかった。けれど、あぐりが起業の際に登記申請した住所はこの家である。そしてアラブ某国に出かける真生に万一のことがないとも限らない。
「真生がいなくなったら、うちの父親が何をするか知れないよ。家を追い出されて、会社を乗っ取られるかも」
 と、まず説得にかかったのは里生だった。あわてて真生も言葉を連ねた。
「遺書は里生に預けてある。私がいなくなってもこの家や遺産の全てがあっちゃんに行くように書いた。だが親戚や……いや、親父が何を言い出すかわからない」
「別に遺産とかいらないし」
 おやつを断わるようにあっさり言った。
 真生と養子縁組をして父子になれば自動的に遺産は受け取れるとも言われたが、論外である。いくら真生が好きだからって篠崎の名は捨てられない。婆ちゃんが泣く。
「それに、お父さんが俺の弱小引っ越し会社を手に入れてどうするの?」
「万一に備えるだけだよ。周囲が納得せざるを得ない証拠として、結婚式を挙げるんだよ。法的効果はなくとも、そういう目に見える印象は案外強いもんだよ」
 と、ここぞとばかりに説き伏せる真生に折れて、あぐりは仕方なく頷いたのだ。
 だから挙式の写真の殆どは仏頂面で写っている。真生も愛想笑いはしないから、黒紋付羽織袴の男二人がこちらを睨んでいる写真は同性結婚式というよりはヤクザが盃事の儀式に臨んでいるかのようだった。
「一日にまとめてやっちゃった方がマジ、インパクトあるぜ。マスコミ対応もメッチャ楽だし」
 と言うミソッチ先輩の提案で、午前中に里生と刈谷が、午後にあぐりと真生が挙式を上げるスケジュールとなった。つまりビアンとゲイが一気に結婚式を挙げるのだ。おまけに双子である。
 マスコミが飛び付かないはずがない。というかミソッチ自身がSNSで告知しまくっていた。
 全国版の新聞雑誌テレビの取材が押し寄せて、真生の出立まで途切れることがなかった。
 それら全てのスポークスパーソンは里生が引き受けた。真生は剣呑な事を言いかねないし、あぐりは写真写りこそいいがマスコミ受けする話は出来なかったし。
 かくして今や真柴本城市の坂上神社はLGBTQ御用達で大盛況である。折にふれ訪ねて見ればレインボーカラーの開運キーホルダーやお守りなどを売っているのだから、実に機を見るに敏な宮司である。
 挙式効果は引っ越し屋にも若干あった。何件か予約がキャンセルされたのだ。
「ホモの引っ越し屋が荷物を触ったら、どんな黴菌がつくか知れやしない」
  などとわざわざ電話で嫌味を言って断る客もいた。
  あぐりは特に言い返しもせずに電話を切った。同性愛者であることで虐げられるのは今に始まったことではないし、挙式などすればそれが何倍にもなると予想はしていた。だが何倍という程ではなかったので、少しは世の中を見直した。
 むしろ心に残ったのはご祝儀だった。菅野夫妻からは開業祝いをもらったばかりなのに、結婚祝いまでもらった。
「何がいいかわからないから。二人で相談して欲しい物に使ってちょうだい」
 と、かなり厚みのある祝儀袋をもらったものだった。夫人手作りの刺し子刺繍のクッションやティッシュカバーも添えられていた。かつて相談した〝恋人〟が実は同性だったと察したはずだが、特に言及はせず通常の結婚式のように祝ってくれた。
 元の職場の吉田くんや杉野さん、三田村さんからもお祝いが届いた。
 ちなみに叔母ちゃんと富樫のおっちゃんからは、
〈開業祝と結婚祝いまとめてで悪いけど。タケ兄ちゃんと相談して作りました〉
 と新しい会社の作業着が送られて来た。胸に社名の刺繍がある上着とズボン。SMLとサイズも揃い、これから何人規模の会社にするのだ? と思う程の量が段ボール箱で届いたのだった。
 真生にもこの作業着を進呈したところ、満更でもない顔でそれを海外に送る荷物に詰めていた。アラブであぐり引越社の作業着を着るのか……と考えてあぐりも満更ではなかったが。 

 猫らに朝食を出すと自分も卵かけご飯の朝食を済ませて出勤である。冷凍庫には田上の母(立場的には姑と呼ぶべきなのだろうか?)が作ってくれた総菜が入っているが、これは夕飯でいただく。
 あぐり引越社の制服に着替えて、書類を詰めたバックを持ってランドローバーに乗り込む。ここから真柴川元町に移動して月極駐車場に停めてあるトラックに乗り込むのだ。事務所を本格的に移転すれば、朝のこの動きもかなり楽になるはずである。
 本城国分寺町から真柴川元に向かうのは田園地帯にまっすぐ敷き延べられた一本道である。田畑はまだ冬枯れの色だが、じき新緑が芽吹くはずである。
 その中を一台の車が走る。シルバーメタリックの四輪駆動が軽快に疾走する。腹に響くエンジン音は目覚めきっていないあぐりの身体を隅々の細胞に到るまで起こして回る。
 見上げる先には白く輝く太陽が昇っている。
 薄闇も茜色も遥かに過ぎ去り、とうに夜は明けていた。
 
 もう何ひとつ気に病むことはない。
 いや、言い過ぎた。ひとつだけ気がかりがある。
 帰国が近づくにつれ、真生から謎のLINEが届くようになっていた。日本に帰ったら、あれを食べたい、あそこに行きたい、これをしたいといろいろな希望が送られて来るのだが、その後に必ず添えられる一文。
〈二人きり重要。OK?〉
 という暗号である。
 OK? と問われているのだから、OKと返せばいいのだろうが、その内容がわからない。
 何か昔の暗号だろうが、どうにも思い出せない。
〈???〉
 と黒猫が疑問符を抱え込んでいるスタンプを送ったところが、
〈へえ。あっちゃんは覚えてないんだ。ふーん〉
 と不満そうな返事が返って来た。
 これ以上、問いかけると怒らせる。思い出すしかない。
 真生と出会ってから怒涛の勢いでさまざまな事件が起きていた。一体いつどこで何を示した暗号だったか。思い出せそうで思い出せない。古いスマートフォンはとっくに処分したから手がかりは何もない。
 ステアリングを回し、大吉マンションの前を通り過ぎ月極駐車場に車を乗り入れる。
 隣の区画には横腹に〝AGURI引越社〟とペイントされた二トントラックが待っている。
 トラックのコックピットに乗り込みながら、また考える。
〈二人きり重要。OK?〉
 二人が出会った頃のことから、順繰りに思い出すしかあるまい。

 柿の木で蝉が一匹鳴いている。夏もじき終わる。

 【全8話 完結】

猫と愛してるのあ 第1話 | 
猫と愛してるのあ 第2話 | 
猫と愛してるのあ 第3話 |
猫と愛してるのあ 第4話 | 
猫と愛してるのあ 第5話 | 
猫と愛してるのあ 第6話 | 
猫と愛してるのあ 第7話 | 

 


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