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選択の余地なき我は一人旅

一人旅に関する記事を読むにつけ、自分の旅とのあまりの違いに言葉を失う。

〝たまには一人で旅行をしませんか?〟
〝時には家族と離れて一人旅を楽しむ〟
〝恋人旅行もいいけれど一人旅で女を磨く〟

なんじゃそりゃーーーーっ⁉
おまえらにとって一人旅は贅沢かよ⁉
友だちいるくせに。
家族があるくせに。
恋人だっているくせに。
たまには? 時には? 
何を贅沢言ってんだ⁉
ふざけんな!!

私なんか、友だちも恋人も家族もいないんだよ。
仕方なく一人旅始めたんだよ。
待っててもそういう者は出来ないって悟ったから。
選択の余地ねーんだよ!!

いや、まあ……数回は友だち?のような人と旅をしたことはある。
もうね、退屈だった。無理だった。

共に下呂温泉に行った人には、
「江戸川さんて、あそこ行ってここ行ってって、いろいろ考えるのね」
と感心したように言われた。
今にして思えばその人は、駅までバスで迎えに来てもらい、旅館に入ったら後は豪華な料理を食べて、温泉に浸かってのんびりすればそれでよかったのだろう。
いわゆるふつうの〝温泉旅行〟である。

福岡市内のマンホール
旅に出ると蓋を撮らずにいられない

近隣の名所旧跡を歩き回るなんて興味がなかったみたい。
マンホールの蓋を撮ることも。
まして外湯巡りをして湯あたりするなんて、もっての外に違いない。
でも、私は退屈でイライラしては「あそこ行かない? ここ行かない?」と提案していたのだが。

今にして思えば、全然友だちじゃないな。
でも欲しかったんだよ友だちが。
誰かと一緒に旅行したかったんだよ。
しくしく……

というわけで、やたら無邪気に〝一人旅〟を謳い上げる記事には怒りを覚えるのだ。
独り者の僻みと言わば言え。

でも、いつだったろう。
全てを諦めて一人旅を始めて間もなく……
確か広島か岡山か、そのあたりの町を歩いていた時だと思う。
唐突に得も言われぬ多幸感に包まれたことがある。
何の変哲もない地方都市の住宅地。
ぴぽぴぽと青信号の音が鳴っていた。
横断歩道のシマシマを渡っていたのだ。
全身が痺れるような喜びを覚えて、頬が緩んでしまったのだ。
うふふふと一人で笑っていた。

あえて言葉にすれば、自分がとてつもなく自由であることに気づいたのだ。
一人でどこへでも行ける。
日本全国いや海外だって一人で好きに出かけても、誰に叱られることもない。

「あそこに行ったなら、あれを見なきゃ駄目だなあ」
「あの町なら、あの店であれを食べなきゃ駄目じゃないか」
「せっかく行ったのに、エリザベスは馬鹿だなあ」
なんて責めりたり咎めたりする奴はいないのだ。
そんな奴らとはもう縁を切った。

それまでの私は現実のそういう奴らを勝手に自分の頭の中に植え付けて、再生していた。
自分で自分を縛り付けて、ただ息をするだけの日々だった。
一人旅に出られるまでには、ささやかながら自分の中に闘いはあったのだ。

結果、身に染みて思い知ったのだ。
私はこんなにも自由だったんだ!と。
そんな天恵を得た場所がどこだったか覚えていないのが我ながらだらしないが。
いや、はっきり記憶していないこともまた自由さの証明かも知れない。
……なんちってな。

牡丹灯籠 俺たちの圓朝を聴け!
立川談春&柳家三三

何の話だったかな?
まあ、あれだ……私の一人旅はたぶん他の人とは違うのだろう。
でも、いいの。

今日も次の旅を考えていた。
紙の時刻表を開いたり、旅行サイトを検索したりしているうちに、頭がパンパンになってしまった。
近いうちにまた旅に出る。
noteもまた書くことだろう。
乞うご期待!

※写真は全て4/22(土)福岡ももちパレスでの落語会
「牡丹灯籠 俺たちの圓朝を聴け!」のものです。
また、冒頭の高座写真は撮影許可時のものです。


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