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暮れの噺~芝浜&文七元結~

※3,634文字

芝浜

落語には季節感がある。
季節毎にかけられる噺があるのだ。
暮れの噺の代表は「芝浜」である。

けれども、崇め奉られてちょっと天狗になっていないか?

年末⇒落語⇒芝浜⇒感動!!

という図式がうざったい。

※一応あらすじも上げておきます

この噺の崇め奉られ具合は、
(早口言葉か?あがめたてまつられぐあい。三回続けて言えないぞ)
ただ事ではない。

そこに目をつけたのが寄席である。

上野鈴本演芸場では、この2023年12月中席で〝年の瀬に芝浜を聴く会〟なんてのを催している。

12/11~12/20のトリネタが全て「芝浜」なのである。

違うのは噺家だけ。

12/11 林家きく麿
12/12 柳家権太楼
12/13 古今亭文菊
12/14 蜃気楼龍玉
12/15 桃月庵白酒
12/16 春風亭一朝
12/17 春風亭一之輔
12/18 柳家さん喬
12/19 春風亭百栄(ジャム浜)
12/20 三遊亭白鳥(黄昏のライバル芝浜リスペクト編)


どうよこれ?

あざといなあ。鈴本さん。

まんまと乗った私は、初日のきく麿師匠から一之輔師匠、百栄師匠と三日も聞きに行ってしまったぞ。

春風亭百栄師匠は
改作「ジャム浜」であった
(ちなみに巻頭写真が一之輔師匠)

とはいえ、そう仰々しくありがたがる噺でもないと思う。

だって三遊亭圓朝が「酔っ払い」「皮財布」「芝浜」の三題噺で作っただけの落語だよ?

ツッコミどころ満載だし。

そう思っているのは私だけではないようで。

「おまえさん起きとくれよ。起きて仕事に行っとくれよ」

という有名な出だしは、もはや落語界では洒落と化している。

だが正面切って戦いを挑んだのは春風亭一之輔だけだろう。
(いや、百栄師匠の「ジャム浜」も心意気は同じかな?)

「芝浜」に対するツッコミから新作落語を創り上げた。
それが「芝ノ浜由縁初鰹」通称「ポル浜」である。

※既にCD になっているので興味があれば、こちらをどうぞ

一之輔は今回の鈴本中席ではきちんと古典の「芝浜」を演った。

しかし、その後12/18(月)に恵比寿ガーデンプレイスで催されたルルティモ寄席では「ポル浜」を演った。

弾けに弾けた高座で客席を爆笑の渦に巻き込んだ。
しまいには立ち上がりハンドマイクを持って歌いまくる高座であった。

ルルテイモ寄席 演目

鈴本での古典本寸法の真逆である。

一人の人間がここまで違う落語を出来るものかと感心する。

いや、古典本寸法の基礎あらばこそ出来る技である。

恵比寿ガーデンプレイスの
クリスマスツリー

文七元結

「芝浜」と双璧を成す人情噺に「文七元結」がある。

これまた無暗に崇め奉られている噺である。
きっと天狗になっている。

やはり御大、三遊亭圓朝の作である。

※こちらが、あらすじである

そしてまた、これも実にツッコミどころの多い噺である。

左官の長兵衛親方は腕はいいのに博打で身を持ち崩す。
妻や娘に手を挙げることもある。

ギャンブル依存症の男だね。

ちなみに「芝浜」はアルコール依存症の男だね。

その病名こそなかったが、江戸の昔から嗜癖は蔓延していたのだね。

「芝浜」のマクラで一之輔師匠がよく異を唱えている。
あんな茶番でアルコール依存症がケロッと治るか!?

まったくだ!

アル中の治療法はただひとつ!!

二度と酒を吞まないこと!

というのはAA(アルコールアノニマス⇒断酒会のようなもの)の基本である。

とりあえず甘味
これも嗜癖か?

ギャンブル依存症の治療法もただひとつ。

二度とギャンブルをしないことである。

いや、今は治療法ではなく落語の話である。
「文七元結」に戻ろう。

長兵衛親方の娘、お久は吉原の大店、佐野槌に駆け込む。

父親が博打で作った借金を返すために身を売る。
旧知の女将さんに父親に意見をしてもらう。

その二つが目的で。

そして長兵衛は佐野槌の女将に懇々と諭されて、五十両という大金を渡される。

借金のカタに娘お久は女将が預かって女中奉公をさせるという。

だが来年末までに借金を返さなければ、お久は女郎として店に出すという。

だから真面目にこつこつ働いて、少しずつでもいいから金を返すようにと言われる。

今現在の吉原大門
看板が残るばかりである

問題はこの先である。

長兵衛はその大切な五十両を、吾妻橋で身投げをしようとしている文七にやってしまうのだ。

五十両を盗られたから死ぬと言う見ず知らずの若者に。

ここがこの噺最大のネックである。

大問題である。


そんなはずねーだろ!!!

誰もが声を大にして叫ぶだろう。
私だって叫ぶね。

「娘は店に出されるが、命までとられるわけじゃない。おまえは五十両ないと死ぬと言う。だからやるんだ!」

という長兵衛の台詞がある。

そんなんで納得するかよ!?

吉原 見返り柳の碑

これは江戸っ子の美学である。
一度出した金を引っ込めるわけにはいかない。

などと解説する向きもあるが、いいや!

私は納得しないね!!

死んでも出すなと言いたいね!!

娘の身にもなってみろ!!

父親の借金のために女郎にされる。
身も心も穢して堕ちて行く。
病か自死か刃傷沙汰かは知らねども、きっと惨めに命を落とす。

娘の命で作った大金を、父親は他人の命を救うために捨てるのだ。

美談なんかじゃねーよ!!

親ならば他人の命より娘の命をまず救え!!

切羽詰まったぎりぎりで、それが親の役目だろう!!

と雄叫びを上げたい私である。
だからこの落語には、かなり冷たく接していた。

これまでは。

吉原の桜鍋屋 金村
現役です


暮れの鈴本文七元結を聴く会

またしても上野鈴本演芸場はやってくれた。
12月中席の「芝浜」に続いて、下席のトリネタは「文七元結」である。

〝暮れの鈴本 文七元結を聴く会〟ですってよ奥様。

12/21 柳家喬太郎
12/22 五街道雲助
12/23 古今亭菊之丞
12/24 柳亭左龍
12/25 古今亭志ん輔
12/26 柳家三三

という陣容である。

私が参戦したのは、12/26(火) 柳家三三師匠の回である。
この三三師匠の「文七元結」で私は全てを納得した。

了解した。

腑に落ちたのだ。

心の中で一大転換が起きた。

暮れの上野
正月飾りの出店が

それが三三師匠の解釈によるものなのか。
私自身の受け取り方なのか。

今となってはわからない。

けれどやはり三三師匠の解釈と表現力によるものと思いたい。

問題のあの場面で、三三師匠の長兵衛親方は、わりとあっさり五十両を文七に渡してしまう。

もちろん迷ってじたばたして、
「誰か受付変わってくれよ」
と、お馴染みの台詞で逃げようとしたりするけれど。

そして金を渡した後で文七に、その由来を説明する。
これも通常通りである。

みすぼらしい女物の着物を着た自分が何故こんな大金を持っているのか。
決して盗んだ金ではないと語るのだ。

夜の浅草寺

けれど「あれ?」と私は思った。

長兵衛は自分が佐野槌の女将に言われたように文七に向かって、
「一度にまとめて返さなくてもいい。少しでも金が出来たらその都度返せばいいんだ」
などと語るうちにふっと黙る。

ここは笑いを呼ぶ場面でもある。
女将の言葉をオウム返ししているのだから。
実際に客席からくすくす笑いも起きた。

けれど私には、長兵衛がここで初めて自分の罪を認めたように思えた。

佐野槌の女将に諭された言葉が、自らの心に着地して根付いた瞬間である。

吉原で長兵衛は佐野槌の女将に礼を言い、娘お久にも頭を下げて店を出た。

そして見返り柳で振り返り、
「お久、すまねえ」
なんて言ったりもする。

けれど心の底から、身に染みて反省したわけではないと思う。

ちょっとした誘惑があれば、
「この金を博打で倍にして返そう!」
なんて転びそうな危うさがある。

ほんの上っ面の殊勝さである。

言ってしまえば文七に金を与えたのだって、長兵衛にとっては博打みたいなものだろう。

けれど、文七に語り聞かせるうちに気づいてしまったのだ。

別角度から見る
夜の浅草寺

この金が真実どういう金なのか。

娘の命にも等しい物なのだと。

そして妻や娘をそんな苦境に追い込んだのは、他ならぬ自分であると。

博打狂いの人間失格。

佐野槌の女将の温情を今更やっと心の底から理解したのだ。

そうして長兵衛は吾妻橋を走り去る。

ああ、そうなのだ。
今この時こそ長兵衛が生まれ変わった瞬間である。

金こそ失ったけど、魂を取り返したのである。

もう二度とこの男は博打に手を出すまい。

石にかじりついてでも働いて、働き抜いて借金を返すだろう。
女房子供に手を上げることもあるまい。

だから、ほら。

その後、長屋で女房に、
「金をどうした!?」
「博打に使ったんだろう!」
と問い詰められても、決して手は上げなかった。
「知らない男にやったんだ!」
と繰り返すばかりだった。

そうかそうか。
そうだったのか。

私は三三師匠の「文七元結」で初めてこの噺を理解した。

そういう名演だった。

少なくとも前よりは、この人情噺を許せるかも知れない。

……って、許してなかったのか私は?

まあね。
かも知れないね。

年末にいいものを聴きました。

前座さんが追い出し太鼓を叩いているよ。

デテケ デテケ♪
テンデンバラバラ テンデンバラバラ♪

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