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江戸の宗教観と平和とクリエイティビティー - 【大衆の精神性と品位:その2】

『雨の言葉』に見る日本人の感性と自然崇拝

春雨、五月雨、梅雨、氷雨、驟雨(しゅうう)、小糠雨(こぬか雨)、甘雨(かんう)。日本にはこのような「雨の言葉」が100以上存在し、その数は世界一と言われています。それほど多くの表現法が生まれたのはこの国に四季折々の様々な雨の情景があったからでしょう。日本は古来より「雨の国」でした。

東洋の島国である日本は南北3,000キロの間に6,852もの島を抱え、その島々は弓状に広がっているため、世界の気象現象のほとんどを内包する気象大国です。北海道のほぼ全域が亜寒帯ですが、沖縄を含む南西諸島は亜熱帯に属し、北と南では格段の温度差があります。

国土の3分の2が山という地形的な特色もあります。本州の中央には3,000メートル級の日本アルプスの山々が連なり、四方は海に囲まれています。こうした地形の影響もあり、日本列島は全体的に雨が多いのです。年間では1,700ミリもの雨が降りますがこの降水量は世界平均の約2倍に相当するとのことでした。

そのたくさんの雨が急勾配の川を一気に流れて四方の海へと流れ出ていく。この「雨の恵」によって日本列島は古来より美しい緑や花に恵まれてきました。

見方を変えれば日本人は常に自然現象の厳しさと向き合うことが運命付けられていたことにもなります。自然現象は人に対して優しい時もあれば、時に厳しい時もありその変化に応じて人は様々なことを感じてきたことでしょう。

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改めてその言葉を見ていくと「春」の雨だけでもいくつもの表現法があります。「春雨」は静かにしとしとと降る長雨、「春驟雨(はるしゅうう)」は雷を伴ったにわか雨。また「春霖(しゅんりん)」「菜種梅雨」「木の芽雨」なども春雨と同じ春の長雨を表す言葉です。夏の「五月雨」、秋の「秋雨」、冬の「時雨」などはよく知られていますが、これ以外にも季節ごとの雨の言葉が複数存在します。一口に「雨」といっても、優しい印象の雨、冷たい感じの雨、どしゃ降りの強烈な雨など何通りもの表現があります。しばらく雨が降らないときは不安になり、「甘雨(かんう)」や「慈雨(じう)」などといった恵の雨に感謝する心から生まれた言葉も存在します。これら数々の表現方法から、日本人の心と自然環境との密接な関わりが読み取れます。

元々農耕民族だった日本人は、昔から自然の摂理と常に対峙し、どうすれば自然と仲良く暮らすことができるのか、どうすれば自然を喜ばせて農作物を実らせることができるのかを試行錯誤してきたことでしょう。そうした暮らしの中でアニミズム、つまり自然崇拝といったものが発生したと考えられています。こうして日本の歴史の中に自然と『神道』という宗教観が生まれてきました。

自然崇拝はやがて仏教と交わり、「神仏習合」の教えが広まっていくことになります。


平和な時代に共通する「神仏習合」と「象徴天皇制」

日本史の流れを見ていくと、かつて日本史上には二度にわたる長い平和な時代が存在していました。一度目が平安時代の350年、次が江戸時代です。

この二つの時代に共通しているのが「神仏習合」の宗教観、つまり飛鳥時代に聖徳太子が行なった「神道と仏教の習合の教え」が大衆に広く布教されていた点です。


神仏習合
「神道」というのは、自然信仰から発生した多神教の宗教で、いわゆる八百万の神というやつです。縄文時代より日本人は自然の中に「神性」を見出し、数々の民話や神話が生まれました。やがて日本独自の神道という宗教の形が生まれました。神道が発生したことで神を祭るための神社も登場し、神事や祭礼といった儀式も体系化されますが、その教えを文字化した経典は存在しません。

一方「仏教」は経典を伴う東洋思想で、大陸との貿易交流が始まって以降、日本国内にも徐々に広がりを見せたものです。当然、もともとあった神道と仏教徒の間に葛藤が生じましたが、聖徳太子が二つの思想をすり合わせる形で治め、国家の中核となる考え方に昇華したと言われています。


象徴天皇制
そしてもう一つ日本人の心の形成に深く関わってきたのが、日本の国の形を象徴する「象徴天皇制」です。当初、日本では天皇が権威と権力の両方を併せ持ち、実質的君主として君臨していました。平安時代になると権力の方を貴族に譲り、天皇は権威だけの存在に変わりました。「権威」と「権力」の分離という概念が生まれた瞬間でした。

当時、権力は藤原氏が握っていて、その上に天皇がいるという構図が敷かれました。時の権力者も自分の上に天皇という権威が存在しているため、権力をほしいままにして短絡的な暴走をすることはできない、ある種の抑止力として働くこの仕組みは国のバランスを維持する上でうまく機能した様です。


江戸時代には、この神仏習合に新たに「儒教(儒学)」が加わり「神・仏・儒の習合」がなされました。それまでの神仏習合と神仏儒の習合での違いは「神仏」は現実とかけ離れた精神世界が対象領域でしたが、「儒」は実学で、もっと現実的な内容でした。例えば国家の形態やそこでの秩序など、社会生活に直接役立つ教えが主な内容だったため、とりわけ武士階級の間に広く浸透し、政治や社会の形成に影響を及ぼしました。

武士の子弟が学ぶ藩校では儒学の中でも朱子学を中核とする『四書五経』を全員が素読していました。詳しくは以下の記事をご参照ください。

例えば四書の一つである「大学」の中の有名な教えといえば

『修身、斉家、治国家、平天下』

つまりまずは自分の身を修め、次に家庭の秩序を安定させ、国を平安にし、最後に天下を治めるべきという教えがありました。武士は子供の頃からこれらの道徳に親み、この教えに沿って自らを律して鍛え精神性を磨いていったようです。

「神仏儒の習合」は特に武士階級の精神形成の土台となりました。武士は土地という経済的基盤を所有せずに統治するという世界史上でも稀な性質を持った支配階級でしたが、その様な立場を維持できたのもこれらの高い精神性のおかげかもしれません。


「象徴天皇制」についていえば、江戸時代に入って天皇の象徴化がさらに進みました。その一方で、武士階級の実質的な権力が高まり、支配階級としての地位が確立されました。天皇は象徴として京都に在籍し、徳川幕府が実質的支配者として江戸でその権力をふるう形が定着していました。この時代、全ての武士は天皇と城主(藩主)の命をどう守るか、さらには家族をどう守るかということを常に考えていたようです。一番目が天皇、二番目が藩主、三番目が家族という順序でした。


社会の安定とクリエイティビティー

社会が平和になるとその時代に文化が豊かになるという特徴が挙げられそうです。

平安時代には様々な宮廷文化や農民文化が生まれました。宮廷では「雅楽」や「文学」が発達し、平安後期には『源氏物語』『枕草子』『和泉式部日記』といった女流文学が生まれました。農民の間ではお祭りが盛んになり、数多くの民話も生まれました。

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江戸時代には元禄文化に代表される様々な素晴らしい文化が花開きました。この時期、様式美も極端に発達し、平和を象徴する日光東照宮をはじめデザイン性の優れた数多くの神社、仏閣が造られています。またそもそもこれらの記事を書くきっかけとなった、世界一の事象も数多く生まれ、社会としてのクリエイティビティーが高まった時代だったと言えそうです。

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国、政治、そして宗教観など様々な要因が密接に関わり、真の意味で平和な社会環境を構築できたときに後世にまで語り継がれるほどの価値ある文化が作られるのではないかと感じています。


自然のリズムに合わせた江戸流の暮らし方

江戸時代の人々のライフスタイルの基本は、日の出と共に起きて、日没と共に仕事を終えて早く寝る、というものでした。当時は今の様な照明もないので日が沈んだら寝るしかなかったのです。現代人にはなかなか真似できない「自然のリズム」に合わせた生活を実践していようです。

江戸時代の人々は近所の寺で鳴らす「時の鐘」や太陽の位置をみて時刻を知りました。時計を所有していたのは大名や豪商くらいでしたし、その時刻も今の様に精密に割り出したものではなく、太陽の動きを基準にした「不定時法」が採用されていました。

現在は一日を24等分にしていますが、不定時法では日の出から日没まで、日没から日の出までをそれぞれ6当分して「一刻」としたので、今の感覚でいえば約2時間が一刻ということになります。また当然、夏は昼間の一刻が長くなり、冬は夜の一刻が長くなるというのも不定時法の特徴でした。

起床は日の出の「明け六つ」。江戸ではこの時刻になると市内一斉に時の鐘が響いたため、鐘の音を合図にまちが一斉に目を覚ましました。

「暮れ六つ」の鐘は日没の合図で、外で働く職人などはこの鐘を聞いて家路についそうです。湯屋にいったり夕食をとったあとは寝るだけ。「夜五つ」(今でいえば夜八時頃)には就寝というのが一般的な生活リズムだったようです。

ただし、今でいう「何時何分」という細かい時刻を知る方法はなく、あとは感覚で活動していたようです。


今後このテーマで深掘りしていく点

今回は、日本独自の豊かな気候が生んだ文化や宗教観を中心に纏めて行きましたが、それらが行き着く先は真の意味での社会の安定でした。

ここで言うところの『真の意味』がまだまだ解像度が荒いのですが、社会制度もある程度安定しており、自由度が高く、一般庶民の精神的な豊かさも醸成されている状態、的な感じでしょうか。

そういった環境が用意できれば社会全体としてのクリエイティビティーが上がると言うのは上述した通り日本史から見て取れる傾向として理解して間違いなさそうです。

ですので今後はこうした環境を生み出す方法を体系化できないかという思考方針で調べを進めて行きたいと思っています。


本日はこの辺で。


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