士農工商

【大衆の精神性と品位:その1】江戸の人間関係と支配層の特徴

『江戸しぐさ』と呼ばれる共通のフォーマット

江戸の調査を進めていくと、「大衆から生まれた文化」というのは江戸時代の一つのキーワードのように思えます。ここで言う文化とは一つのムーブメントのようなもので、どこからか生まれ、それが人々の間で流行り、いつしかそれが社会常識のように振る舞う現象のことを指しています。

今回調査した、江戸人の精神性という切り口の中では『江戸しぐさ』と呼ばれる振る舞いがとても印象的でした。江戸しぐさとは、江戸に暮らす人々の中から経験的に生まれた生活の知恵であり、人間関係を円滑に運ぶための言葉遣いや振る舞いの総称です。

例えば、雨のひに人とすれ違う時はお互いに傘を外側に軽く傾ける、すれ違いざまに軽く会釈をし、肩を引いてぶつからないようにするなど簡単な往来でのマナーも江戸しぐさとして定義され、一般大衆に広く行き渡っていました。

士農工商2

江戸の町には全国から様々な人々が集まっており、それら多くの人々が長屋という高い人口密集度の中での生活を余儀なくされたため、お互いに気持ち良く安心して暮らせるようにと、必然性の中から生まれてきたものなのではないかと推察しています。

町方のリーダーたちが知恵を絞り、江戸しぐさを生み出し、フォーマット化して大衆に伝搬していったようです。


挨拶のフォーマット

ロシア人革命家メーチニコフは手記の中で当時の町方の人たちの態度をこのように記していました。

「この国では、どんなに貧しく疲れ切った人足でも、こうした作法の決まりから外れることが消してない・・・」

こうした作法とは江戸の庶民たちが「こんにちは」と相手と挨拶を交わした後に、「暑くてござりまする(暑いと謹んで申し上げる)」というように天候状態を確認する一言を付け加える作法のことをさしています。

これも挨拶の後に一言付け加えることで相手への思いやりを示すことを意味する、という江戸しぐさのフォーマットだったと言われています。

江戸の商人の子供達は9歳までには挨拶言葉を学び、「こんにちは」の後に「良いお天気でございますね」や「寒くなってまいりましたね」などの一言を加えることが当たり前にできるようになっていたという。

こうした大衆の中に、共通のフォーマットを浸透させることで全体が平和に気持ちよく過ごせる空間を作り上げた点が非常に興味深く、現代に生きる我々にとってヒントになるエッセンスが詰まっているような気がしています。

メーチニコフは2年近く江戸の人口密集地に暮らしていたにも関わらず、その間に口論したり喧嘩をする日本人の姿を見かけなかったそうで、さらには、質素だがきちんと手入れの行き届いた庭園をみて、「日本は心の芸術家」と表現したと言われています。

こうした記述から、人間関係を円滑にするルール(共通のフォーマット)を定義し浸透させることで全体として安全な空間が作られ、そうした町や空間が創造性を引き上げたのではないかという仮説を立てることが出来そうです。

結果として当時の日本には世界トップレベルの事象がいくつも生まれてきたとしたら共通のフォーマットをどのように生み出し、大衆に浸透させていったかが抽出すべきポイントだと思うのでその点、今後深掘りしていこうと思います。


身分制度の中に生きる庶民の思想

江戸時代には「士農工商」という儒教に基づく身分制度があったものの、庶民は身分や肩書き、年齢にとらわれず相手を尊重することを大切にしていたようです。

初対面の人には年齢、職業、身分を聞かない「三脱の教え」という江戸しぐさもあったそうで、むしろ身分制度とは乖離した教えが大衆に浸透していた可能性を示唆している例だと思います。

商人は商人道、職人は職人道など、それぞれの職業倫理が確立され、それぞれの道を究めるために精進することが重要なこととの教えが強かったようで、この辺りの士農工商という身分制度の中に生きる大衆がその制度と自分の身分をどのように捉え、認識していたのかは今後深掘りしたいと思います。


土地と切り離されていた支配者、『侍』

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江戸時代、制度上も実務上も士農工商の「士」が支配階層であったことは確かです。武士は今でいえば官僚に当たる人々、つまり国家の指導者層と言えるポジションでした。

武士は『武士道』に代表されるように、現代でもその精神性を高く評価されている存在です。武士の子弟は7〜8歳で藩校に入学して武道兼備の侍になるために学問と武芸を学び、武士の礼儀作法を学び、その禅の思想と深く関わる武士道を身につけて心身を鍛え上げることを要求されたそうです。

ここでの疑問は、なぜ武士がこの様な独自の厳しい精神性を築くに至ったのかという点です。

当時武士は、支配階層にありながら土地という経済的基盤を持っていない、世界で見ると特殊な支配階層でした。日本でも安土桃山時代までは各大名が土地を巡って争いを繰り広げていましたが、西洋では支配階級は経済力の象徴である土地を所有していることが常識でした。

安土桃山時代から江戸初期にかけて実施された兵農分離で『権力』と『土地の所有』が切り離されたため、武士は土地を持てなくなりました。江戸時代になると、それらの武士は幕府から統治の許可を与えられた藩主の下で行政官として各藩の行政に携わるようになっていきます。

もしかしたらこの辺りの経済的後ろ盾がない中で支配階層としての振る舞いを求められた点も、高い精神性を求める背景にあるのかもしれません。

この辺りの、武士の高い精神性はどこから生まれたものなのかという点と当時の他の階層(農工商)からどの様な見方をされていたのかという点については今後深掘りしていきたいと思います。


今後このテーマで深掘りしていく点

今後深掘りしていくテーマをまとめると、

・共通のフォーマットをどのように生み出し、大衆に浸透させていったのか
・士農工商という身分制度の中に生きる大衆がその制度と自分の身分をどのように捉え、認識していたのか
・武士の高い精神性はどこから生まれたものなのか
・武士は他の階層(農工商)からどの様な見方をされていたのか

この辺りについて深掘りしていこうと思います。


今日はこのへんで。

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