私の昔話3

「上野駅」
上野駅が見えるところまでたどり着きました。また目の前に焼夷弾が落ち、母親の背中の弟の防空頭巾が火の粉で燃え始めました。私は母親を座らせ、素手で防空頭巾を叩きました。幸に火は直ぐに消えました。上野駅は灯が消え、人でいっぱいでした。私達は駅正面の左出口付近に空間を見つけ座りました。しばらくして暗闇が見えるようになると、まわり中死体だらけでした。背中で寝ていた弟をおろし、母親があちこち聞いて歩きましたが、青森行きの列車の発着が朝にならないと分からないようでした。私達はもし空襲で疎開になったら父親の故郷、青森に行く手筈になっておりました。父親は小学校途中で神田駅前の橘屋造花店に丁稚小僧として青森を離れました。後に結婚して下谷西町に花輪さしとして独立しました。
母親は幼い頃に三重県四日市から東京の建築屋に二兄弟に女がいない理由で幼女としてもらわれて来ました。修学旅行の夜、旅先の旅館で初めて姉に面会して、自分の境遇に驚いたようです。
母親の話ですと、上野駅には1週間とどまっていたようです。私は常に銀座方面、浅草方面を覗いておりましたがほとんど焼け野原でした。目の前の京成聚楽と松坂屋、吉田時計の建物だけが見えました。あとは焼け野原だけでした。私は皆の後を追って崖を登り西郷さんの銅像のところまで行きましたが西郷さん付近から見た周りのあちこちで煙のあがる風景を多くの人と見ていました。

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