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思考OSは外注できないぞ問題

これだけAI時代が身近になっているのに、未だに「もはや外国語を学ぶ意味はなくなった」とか「今さらプログラミングを勉強してもAIに負ける」という意見が多いことに驚きます。
たしかに、英訳が手軽にはできなかった一昔前なら、コミニュケーションツールとしての英語は仕事上の希少性があり、その希少性は今はかなり下がりました。流暢に話せることや、巧みに英作文できること自体を「英語ができる価値」だと考えるなら、その通りでしょう。苦労して勉強した上で不完全な文章を作るだけで終わるなら最初からAIに代替させれば済む話で、わざわざ今から勉強する意味は大してありません。

しかし、たとえ流暢でなくとも、何度もつまずきながら(日本語を英訳して考えるのではなく)出発点から英語を通して考えて、英語でしかたどり着けなかった考えに到達できるなら、そこにこそ価値があるとは考えられないでしょうか?
むしろ、「コミニュケーションツールとしての英語」はその副産物だと言いたいくらいです。

英語が簡単にアウトソーシングできる時代だからこそ、英語を学ぶ価値全体に占める「思考OS・思考ツールとしての英語」の重要性・必然性は増しているのではないでしょうか。母国語以外の思考ツールを持つことで、母国語による思考力がさらに強化されます。

これは、いくらAIが発展しようと変わらない価値です(脳に直接OSをインストールして思考を切り替えられるような時代が来たら別かも知れません)。しかも、うまくすれば初心者で語彙が少ないうちからでも力を発揮できる使い方です(例えばaとtheの存在や違いは初心者のうちに学びますが、冠詞だけをテーマにした本が何冊も出版されているくらい奥行きの深いテーマで、日本語の思考からは得難い重要な一側面です)。

これは現代特有の話ではありません。きわめて普遍的、一般的な話であり、歴史上いつも知識教養が重視されてきた理由でもあります。

文豪ゲーテはこのことを端的に表現しています。

Wer fremde Sprachen nicht kennt, weiß nichts von seiner eigenen.
- Johann Wolfgang von Goethe.
外国語を知らぬ者は母国語についても何もわかっていない
- ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ

AIという極めて再現性の高いOS=思考体系が周囲に溢れる今だからこそ、自分の中に日本語以外のOSをインストールする価値があります。

別に英語でなくても構いません。自然言語、プログラミング言語、数学や物理などの自然科学、芸術、歴史、哲学、武術…なんでも構いません。時流で流されるような表面的な情報を学ぶのではなく、独自の思考体系を入手できるほどの土壌が既に出来上がっている分野ならば、時間をかけ努力してOSとしてインストールするだけの価値があるのではないでしょうか。

何がしかの専門家や達人から話を聞く価値も同じところにあると思っています。情報を仕入れるだけなら、同じ業界の別の人でもいいでしょう。大事なのはその人が自身の経験を培って鍛え上げてきた考え方、哲学を聞くことだと思います。編集者としての経験から言えば、単に「その業界に長くいた」だけの人からは情報を仕入れるのが精いっぱいですが、考え抜きながらその道を極めてきた人の言葉には、端々に哲学が見え隠れします。「情報」の枠組みを明らかに越えた学びがそこにあります。

ただし、相手が言葉そのものを磨いているとは限りません。例えばすぐれた陶芸家が土や人の対話から得た思考など、自然言語ではない部分での理解は、うまく言語化できていないことが多いように思いますが、その人の内部にたしかに存在している磨かれた哲学というものが見出せます。
それをインタビューや質問を通じて引き出し、言葉に乗せられたときが、編集者として大きな喜びを得られる場面です。
これが送り手の「常識」と受け手の「常識」を橋渡しできる瞬間なのです。

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