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Box-tory #1

次回刊行までの間、弊社編集担当が場をつなぐべく連載する他愛もない箱庭ショート、Box-tory(ボックストーリー)。第一幕は命名の契機となったアンニュイな午後のひと時のお話。


Box-tory #1 箱

なんだろう。
ちょっとした切っ掛け。
小説の一節、写真、ニュース、風景、風。
畢竟、気まぐれにこの地域に吹いた一陣の風かもしれない。
ゆっくりと、ゆっくりと立ち止まりそうなほど動きの緩慢な文章を書きたくなって、さてそれをどこから始めようかと脳内のさび付いた重箱の隅をつつき続ける。
しかし、ゆっくり書こうとそもそも始めたのだから、探る手も気だるくて頼りない。重箱の隅がいちいち大きく広がって、僕は何もかもどうでもよくなって、それからまた一陣の風に身をゆだねた。
空っぽの箱がカラカラと音を立てて転がっていく。
薄汚れた路地からひび割れたアスファルトを転がり、石橋を渡って土手の深緑の草原を分け進む。そういえば、潰れた銭湯の玄関がいつも通り開いている。気が付くと、上昇気流に乗ったのか巨大な教会の壁をよじ登ってガーゴイルの鼻先を削り、そのまま宇宙の塵を飲み込もうとするかの勢いで、彼方に飛び去って行った。
何の箱だったのか、もう思い出すすべもない。大切にしていたような気がするが、いつの間にか空っぽになっている。
いや、もともと空っぽだったかもしれない。
思えば、そんな風に大切にしていたものが風化していく。
忘却こそ人間の特技であって、常日頃、吹きすさぶ日常の様々なノイズに一枚一枚皮をはがれるように、人は何者でもなくなっていく。あるいは何者かになりつつある人もいるのかもしれない。たぶん僕はもう削り落とされて歪な球体になっていくだけなのだろう。
さて、歪な球体になった僕はどこへ転がっていくのか。
東からのさわやかな風。
そうだった、僕は急いで台所へ走って、やかんの火を止めた。
コーヒーを入れようとお湯を沸かしていたのに、なぜか銭湯のどこかに干された使用済みのタオルの景色が目の前に広がって、むず痒いやら気味が悪いやらで、コーヒー豆にそそぐやかんのお湯が揺れる。立ちのぼるコーヒーの香りが天井まで一筋の湯けむりを作る。
ああ、この部屋も箱だった。
僕は部屋の隅を見つめた。
いちいち大きく広がっていく。
もうこれ以上広がったら壁紙の粒子の原子結合も破れそうなほど広がったところで、銭湯の番台の老婆がのっそりとその量子の暗がりから出てきた。
「あんた、今日は入りにくるの?」
「へ?」
「だから、入るの?」
思わずうなづくと、そこから急激に風景の巻き戻しが起こって部屋の隅はみるみる元の大きさへと縮み、僕は薄汚い部屋の中で、コーヒーカップを取り落としそうになった。
まさかね。
僕は一人、落ち着こうとコーヒーをすする。
しかし、一瞬のちには心に決めていた。
さも、閉店を知らずにいたかのようにあの銭湯に行くのだ。
それから、風呂に入れるかどうかは別にして、教会の外で祈りをささげよう。神を信じない僕が何に祈るのかよくわからないが、祈るふりをするくらいは自由だ。
いや、吹き飛んだ箱と、新たに生まれた箱に感謝をささげよう。
僕はまた雑然とした部屋を見回した。
そうして歪な球体になって、またごろごろとせんべい布団に転がるのだ。


EB


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