文化の狭間で生きる人

はじめに

現在、サッカードイツ代表のメスト・エジル選手の引退の意思表明がメディアで大きな波紋を呼んでいる。

事の発端は今年5月にロンドンでトルコのエルドアン大統領の訪問を受け、一緒に写真を撮影したこと。これがW杯前にドイツメディアにより右派のプロパガンダに利用され、エジルへの批判、バッシングが高まる。ドイツがW杯でグループステージで敗退するという無残な結果を残すと、更にメディアによる本人、家族へのバッシングは収まらなかった。

この事件に関し、エジルは彼に謝罪を求めたドイツサッカー協会会長グリンデル(政治家としては移民に批判的態度で知られた人)、ドイツメディア、スポンサーを強く批判する声明を発表。ドイツ代表引退を宣言した。

私がこの事件に興味を持ったのは、一つには私自身が移民としてイギリスで暮らしており、イギリスにおける移民事情とドイツにおける移民事情の違いを感じたから、そしてもう一つは私の子供達もドイツ国籍者のマイノリティだからである。

欧州の社会の少数派として、この事件の流れを自分なりの視点でちょっとまとめてみようと思う。

実は驚くほど内向きなドイツメディア

エジルに関して「サッカー選手としてはすごいが、幼稚で言い訳がましい」という日本語ツイートを見かけた。これについて、2011年の私の体験を引用したいと思う。ドイツのメディアの恐ろしさに初めて直面した経験である。

私の母と妹は福島第一から40km地点に住んでいる。震災、原発事故後、線量計をイギリスで購入し、物理学の研究室で働く夫に大学で試験してもらい、それを日本に送って線量を現地で実際に測ってもらい、数値で安全確認をしてもらっていた。その結果、市で出している数値と全く同じなこと、被ばくの危険は非常の低い事が判明し、家族の健康不安の問題は一応落ち着いたかに思われた。

が、事故の数週間後、突然ドイツからパニック状態の義父母から電話で「今すぐ福島にいる家族をドイツに避難させろ」と。ドイツのメジャーな新聞や報道局で子供がバタバタ死ぬ危険な状態だと報じたれたとのこと。夫は義父母に「大丈夫だから心配するな」と言いましたが、日本政府は嘘をついているから当てにならない、危険な状態だの一点張り。最後は夫が義父母に「貴方方の息子は博士号を取っている物理学者だ、私とドイツのタブロイドとどっちを信じるのか!」と怒鳴って終了。そこで改めてドイツ語の報道を見て唖然。あまりにも酷い科学的根拠ゼロの記事が堂々と掲載されている事に気がつく。義父母とはその後和解するも、当時はあと少して家族が崩壊する勢いだった。

ドイツ人の真面目なイメージに反して、ドイツのメディアというのはかなり堂々と政治と癒着していて、デマや煽りがものすごい。夫いわく、英語メディアと比べてもモニタリングされておらず、嘘を巧妙に真実だと匂わせる書き方をするのだそう。気の毒だが、今回の標的はエジルだったよう。

原発事故当時は、エネルギー政策を巡る思惑がベースになっていて、今回の場合は移民政策が次回の政権の鍵になっていると言ったところだろうか。

必要とされていない、と感じることの悲しさ

おそらくエジルを一番傷つけたのは、長年成功したスポーツ選手として、恵まれない立場にいる子供のサッカー教育を支援していたチャリティ・パートナーに関係を断たれた事だろう。このゲルセンキルヒェンでの一件は彼を打ちのめしたのではないだろうか。

私は何年かエジルのツイッターをフォローしているが、マイノリティとしての自分の立場、トルコ系ドイツ人としての自分のあり方について真剣に考えている人だという印象を受けていた。無責任とはむしろ正反対に、トルコ社会の自分の役割を認識して行動していた人のように思える。

ドイツのトルコ系選手の中にはトルコ代表を選ぶ選手も少なくない。同じ宗教、バックグラウンドの者同士で集まった時の安心感、気楽さは、欧州にいるとやはり色々な場面で感じる事がある。エジルはあえてそれをせず、ドイツ人としてドイツ代表としてプレーすることを選んだ。それは生まれ故郷への表敬以外とも取れる。当然資金も環境ドイツ代表の方が良かっただろうし実力もあった。が、それなりの葛藤もあるだろう事は想像に難くない。

ドイツ代表を選んだ時、トルコではバッシングが起こる。家族とルーツを大切にしているエジルにとっては生半可な決断ではなかったと思う。その経緯もあり、今度は家族やトルコ人社会への表敬のつもりでエルドアン大統領の表敬訪問を受けたのだろう。

彼の態度には「自分の成功を他人と分かち合いたい」という思いがあるように思う。そのためのゲルセンキルヒェンの母校でのチャリティを拒まれた事は打撃だったに違いない。

ドイツで生まれ育ちながら、いつまでも「成功すればドイツ人、失敗すれば移民」と言われる彼の悲哀を感じる。

真っ先に抹殺されるのは<文化の狭間で生きる人>

ここで、私は以前呼んだ、在日韓国人の作家・活動家辛淑玉女史の著作に書かれていた「社会に問題が起こった時、真っ先に殺されるのは、私のような文化の狭間で生きる人間だ(大意)」という趣旨の言葉を思い出した。

ここ数年の欧州の右傾化、イスラモフォビアは留まるところを知らない。右翼はかろうじて政権こそ取ってはいないものの、政治を動かすような動きに強く関わるようになった。イギリスでもEU離脱の前後にはひどいイスラム教バッシングが起きた。憶測だが、そんな中多様性を重んじ、イスラム教徒の市長であるロンドンはエジルにとって居心地がよく、トルコ大統領と会う意味をいつにも増して軽く考えた可能性はある。

それでも、ドイツ代表の敗退の原因のように掻き立てられたり、いたるところで悪意のある記事をエルドアンの写真とともに掲載され右翼に政治利用されたのは、彼にとってフェアではない。

単に一個人の問題に落とし込んで「我慢が足りない、稚拙」と言い切っている意見を見たが、ここ数年の欧州の右傾化は肌で感じる身としては、それはあまりに厳しすぎる意見に思える。2010年、エジルがU21から南アフリカのW杯ドイツ代表に華々しくデビューし、華麗なプレーで世界中の注目を一気にドイツ代表に惹きつけた頃とは空気は微妙に変わってしまった。

生まれた国も、家族のルーツも大事にした結果、身を引き裂かれるような経験を味わってしまったように、私には見える。私が「見ていられない」と感じるのは、私も日本とドイツにルーツを持つ子供の親として彼の登場をドイツの多様性の象徴として賞賛していた一人だからだ。

イギリスとドイツでは、移民を取り巻く雰囲気は微妙に違っている。

だからこそ、エジルのような選手の活躍はマジョリティでないドイツ人にとっては希望になりえたんではないか。今メディアやドイツサッカー協会に血祭りに挙げられている様子は、見るに耐えない。このような一流選手ですら、袋叩きにするのが今のドイツなのか、と。

エジルは自己憐憫の塊なのか

日本人は耐えるのが好きな人種だ。そのせいか、エジルに「我慢が足りない」「逃げた」という批判を投げかけている人も多くいる。差別が彼の気のせいだと思う人は、ぜひバイエルンミュンヘンのウリ・ホーネス会長の言葉を読んで欲しいと思う。

「(エジルは)ここ何年もクソだった」これが長年国の代表として戦ったスポーツマンへの言葉に投げかける言葉だろうか。この選手はこういう現実の中を何年も生きてきたのではないか。「甘い」という人は、それができるのだろうか?

英語メディアでは彼へのサポートの声が上がり、ドイツサッカー協会への非難、外務大臣への非難が殺到しているが、一旦ドイツ語のメディア、ツイートを見だすと、必ずしも全員がエジルへのメディアの扱いを不当とは感じていない事がわかる。

あるドイツ人が彼への支援を口にすれば、それに対して他のあるドイツ人が「なぜ彼が悪いのか」を言いだし、それに追従する人間が現れる。彼らは自分のどす黒い感情を認めようとしない。

ある人種をターゲットにして悪とする。自分自身、自分の身内の失敗には目をつぶり、責任を誰かに転嫁する。

どこかで見覚えのある光景ではないか?

エジルが引き続きアーセナルで活躍する事、そしてロンドンで快適に過ごし続ける事を祈る。




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