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「堂々としてるんですね」と言われた話

日本では自慢する子は嫌われる

もうかれこれ6年も前になる。当時現地の日本語補習校の教諭の仕事をしていたのだが、現地に日本の某大企業が進出することになり、補習校に複数の生徒が一度に入学してきた事があった。

私は4年生の担任だったが、私のクラスにもなおちゃんという子が入学してきた。同級生の帰国が相次ぎ、クラスにはさわこちゃん一人しか残っていなかったので、私も父母も子供も大喜びだった。そして時を同じくしてもう一人ロンドンからやはり駐在員のさとるくんという男の子が転入してくることになった。たった一人しか子供がいなかったクラスが3人に増えたのだ。

ある時、教室でさわこちゃんとさとるくんが学校での得意教科を教え合っていた。さわこちゃんは陸上の選手に選ばれた事、地域の大会で優勝した事を嬉しそうに話していた。なおちゃんは黙って聞いていたがぽろっと

「日本ではねえ、自慢話するとみんなから嫌われちゃうんだよ」

と言った。さわこちゃんとさとるくんはギョッとした顔でなおちゃんを見た。なおちゃんの方がケロッといつも通りニコニコしている。私はそれを聞いてある事を思い出してハッとなった。

「堂々としているんですね」

更に遡って25年も前の話になる。大学生だった私は放課後の版画制作にのめり込み、一人暮らしだった事もありほぼ毎晩を版画部の部室で版画を作って暮らしていた。才能のある子たちがいろんなアイディアを持ってくる。共同で夕飯を作り、イベントの計画を立て、技法を学び、刺激を受ける。田舎の進学女子校出身で世間知らずな私にとっては、オンボロ部室は面白い人たちと出会えるユートピアだったのだ。

一年生も終わりに近づいた頃。たまにしか部室に現れないデザイン学科のおしゃれな男の子たちが、女の子を3人引き連れて現れた。おかっぱやショートカットにおしゃれな服を来た、当時人気があったファッション雑誌『Olive』から抜け出してきたような可愛いデザイン学科の女の子たちだった。私は先輩になったような気分で張り切って部の説明をしたり、飲み物を出したり、有頂天になっていた。汚い部室に不似合いなお人形のような女の子達が無表情で私の顔を見ている。と、その中の一人が出し抜けにこう言ったのだ。

「あの…堂々としてるんですね」

私は不思議な事をいう人だな、と思いつつも褒められたので悪い気はせず「ありがとうございます」と言っておいた。彼女たちは部員にはならず、その後部室にも二度と現れなかった。後で知った事だが彼女たちはデザイン科の男の子達がやっているバンドのファンだった。版画には興味がなかったらしい。

「堂々としている」は褒め言葉ではなかった。

さわこちゃんもさとるくんも、幼稚園に入る前にイギリスにきた子たちで、現地の学校に通いイギリス人の友達と学んでいる。自分が人よりよくできるところがあれば自慢するのは普通の事だった。それが日本的ではない、などとは、日本の学校に通った事のない彼らは想像してみた事もなかった。

自信満々に振る舞う事。それは美しい事ではない。明らかな権威の威光を背負っていなければ、堂々と振舞うべきではない。それが日本の不文律なのだ。

20年も経って私はやっと気がついた。

「堂々としている」は褒め言葉ではなかった。

注目度の高い学部にいるわけでもなく、おしゃれでもなく、有名な親がいるわけでもなく、みんなに一目置かれる存在でもない田舎者の私が、お洒落で都会的で洗練された子達に対し堂々と話しかけ、彼女の憧れる男の子達に普通に話しかけている事に、彼女達は強い違和感を感じていたのだ。

イギリスの子達は褒めてくれる

その後、なおちゃんとさわこちゃん、さとる君の様子を見ていて、ある事に気がついた。さわこちゃんとさとる君は自慢もするが、基本的には相手との妥協ができる。話し合いでも自分が引くし、ものが足りなければ譲る事が多い。なおちゃんは面倒見もよく口では偉そうな事は言わないが、自分の主張はとことん通したがる傾向があった。日本語能力が高いせいもあり、結果的にクラスを引っ張っていたのはなおちゃんで、それにさわこちゃんとさとる君がついていくという形態で落ち着いて行った。

年度も終わりに近づいた頃、子供達は友達についての作文を書く事になった。一年間新しい土地で暮らしたなおちゃんの書いた作文の一節はとても興味深いものだった。

「私がピアノをひくと、イギリスの子達はみんな『ワオ、すごいね』『なおは天才だよ』とほめてくれます。私はそれがとてもうれしい。日本では、他の子よりピアノを上手にひくと、しっとして仲間はずれにしたり悪口を言うものなので、最初はびっくりしました。日本にもイギリスにもいい友達がたくさんいる。私はもっと友達をほめたいし、日本ももっと人をほめるようになるといいと思います」

自慢するのに、堂々とするのに、人より優れている必要はない

欠点だらけの私が堂々としてるのに違和感を感じる女性もたくさんいるし、女のくせに偉そうな私が苦手な男性がたくさんいるのも知っている。若くもない、背も低いアジア人体型。玉の輿に乗っているわけでもなければ、年収1億の夫がいるわけでもない。

でも、どうして自分を誇りに思ってそれを表に出すのが悪い事なのだろう?それによって、私は誰を傷つけているんだろう。

どうして自分の価値を認めない人の言葉に流されて、自分でない自分を演じなくてはいけないのだろう。

何より私が生きて、関わった人たちの思いが、血となり肉となり私を形作っている。彼らは私の誇りであり、愛している以上、私が私自身を誇りに思い、自分自身を愛するのは事は何も悪い事ではないのではないか。

私は賢い。努力家で思いやりがある。好奇心があり人に親切だ。クリエイティブでタフだ。誰も私の価値を認めなくても、自分に誇りを持ってはいけない理由などないのだ。

注:登場人物の名前は仮名であり、本記事は事実を元にした上でプライバシー保護のために若干訂正加筆されています。


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