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ポピュラーミュージックが持つ矛盾と限界

ポピュラーミュージックの根底に流れる反体系・反権威意識

前回の話につながります。
だいたい20世紀以降のポピュラーミュージックは、本来、クラシック音楽をやれなかった事情を持つ人のためのもの、つまり「音楽のセイフティーネット」だったと考えています。
現代のポピュラーミュージックの礎はアメリカにあると言って良いのではないでしょうか。当時奴隷階級だった黒人の文化と、西洋の文化が出会って融合したことから生まれたと考えています。
なので長い間、ポピュラーミュージックは被差別者の音楽とされました。
結果、ポピュラーミュージックは「体系化、権威化された文化、クラシック音楽へのアンチテーゼ」の思想を持っていると考えています。
チャック・ベリーの「ロール・オーバー・ベートーヴェン」にその思想が垣間見えます。

Roll over Beethoven
And tell Tchaikovsky the news
(ベートーヴェンをひっくりかえして、このニュースをチャイコフスキーに教えてやれ!)

チャック・ベリー「ロール・オーバー・ベートーヴェン」より

実際、ビートルズのプロデューサーが、サポートのクラシック演奏家を探すのに苦労した話を聞いたことがあります。つまりクラシックの人は近づかない分野だったのです。

現実との乖離

しかしです。現代のポピュラーミュージックの世界では、クラシック音楽教育を受けた人が活躍しています。
小澤征爾のオーケストラに参加した人がロックバンドをやって、商業的にアニソンを創っています。
このアンビバレンツな状況の背景とその展望について考えてみました。

ポピュラーミュージックには育成システムがない

「ポピュラーミュージックとしての英才教育を受けた人って少ないのかもしれない」と考えています。
少なくとも育成システムが確立されていないのです。それは「体系化権威化された文化へのアンチテーゼ」を根底に持つと考えると納得できます。

もちろん実際はマイケル・ジャクソンなど親の意向で生まれたスターは少なくないはずですが、それを声を大にすることは憚れる、というのがこの世界です。
たとえば「親の教育で誕生したロック・スター」などは恰好がつきません。たぶん実際に数も少ないです。

私のギターの先生曰く、「見込みがある子ほど、思春期になって自我が生まれるとやめてしまう。子どものモチベーションは『親が喜ぶ』だから。」とのこと。
つまり、それなりの年齢になったとき、「親が喜ぶ」以外のモチベーションを持てない子が多い、というのです。

私が想像するに、クラシックであれば、発表会やコンクールといった「競争」を通じて「ライバル」を見つける、つまり「親が喜ぶ」以外のモチベーションを持たせ、さらに切磋琢磨させる次世代育成システムが構築されているのですが、ポピュラーミュージックにはそれがないのです。

育成システムがない結果として、ポピュラーミュージックはクラシック教育を受けた人にとっての「ブルーオーシャン」になっている
のだと思います。
クラシックからドロップアウトしても、基礎能力に欠けた人々に対し、幼年時に基礎を叩き込まれた人々が優位に立てるのは当然です。
つまり、本来、クラシック音楽教育を受けられなかった人のための分野だったのに、クラシック音楽教育を受けた人が活躍するという皮肉な状態です。

ポピュラーミュージックの文化としての特殊性

考えるに、これについてはポピュラーミュージックがマイナーであって、あらゆる文化において親の夢やリソースを子供が受け継ぐというのは普通にあります。

たとえばアスリートの世界では選手の名前にそれが表れています。
BMXの中村輪夢(りむ)選手。ちなみにリムは自転車の車輪のフレーム部分を指します。
フィギュアスケートの島田麻央選手は 一世を風靡した大スター元選手、浅田真央氏が名前の由来です。
ゴルフの杉原大河選手 蝉川泰果選手、長野泰雅選手、田中泰芽選手、岩田大河選手は、全員がアメリカの偉大な選手、タイガー・ウッズ氏が名前の由来です。
それらの名前には、親からの身勝手とも思えるほどの夢と期待が詰まっています。

そして、クラシック音楽も親がクラシック音楽に関わっていた、というのが普通にあります。
極端に進むと、歌舞伎のように「ある家に生まれないと興行権も持てないし、主役すらできない」となります。

そう考えると、「文化」とはそもそも世代を超えて引き継ぐシステムを持ったもの、つまり体系化・権威化されたものなのかもしれません。

状況から考える進むべき方向性

その状況を踏まえたポピュラーミュージックのこれからの道は二つあると考えます。
1)アンチテーゼを捨て体系化した文化としてリブートする

2)本来の「体系化された文化へのアンチテーゼ」を原点回帰する
だと思います。

でも、2)は資本主義社会と相性が悪すぎると思うことと、過去の例としてルネッサンスやパンクムーブメントが成果を残してもその本来の趣旨が成功したとは言い難く、現実として不可能ではないかな、と思います。

ポピュラーミュージックの文化としての限界

身も蓋もない結論ですが、結局のところ、アンチテーゼというのは発展的な思想ではないのでしょう。
そしてアンチテーゼが根底にある限り、ポピュラーミュージックの発展は個人に頼るほかないでしょう。
それが醍醐味なのかもしれませんが、結局、クラシック教育を受けた人が有利であることは変わらないでしょう。
それがポピュラーミュージックの文化としての限界だと考えます。

矛盾は永遠に続く

「ロール・オーバー・ベートーヴェン」を歌ったチャック・ベリーが晩年にこう言ったそうです。
「俺の曲を演れない(=知らない)やつはプロじゃない」
でも、その言葉は自らとロックンロールの権威化です。
その良し悪しは別として、成功を手に入れ、ロックが普及し、年老いた彼は矛盾へ行きついてしまったのでしょう。
この矛盾こそがポピュラーミュージックの正体であるのかもしれません。

ここまで考えをまとめて、正直な気持ちを述べると、音楽を純粋に極めたいのであるならば、やはりクラシックへ進むべきなのかもしれません。

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