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誰もが、道の途中である

20代の頃、茶道を習っていました。母は裏千家の師範代だったのですが、母も結婚してから長らく茶道をお休みしていたので、二人で別の先生のところに習いに行っていました。お稽古のない日は実家で母に習っていました。

茶道が好きだ、というよりも、私には茶道がとても不思議だったのです。

茶道にはたくさんの所作(しょさ)があります。所作とは、行い、とか身のこなしを意味します。型とでもいいましょうか。

よくよく考えれば、茶道の目的は「粉末のお抹茶を茶碗のなかでお湯で攪拌(かくはん)して飲み物にして他人に提供する」であり、その目的自体はとても簡単なことです。それなのに、それこそ襖を開けて茶室に入るところから、お茶碗に茶道具を仕組むことから厳格な所作があります。

順序を間違えたり、向きを間違えたりすると、先生から間違いを指摘され、頭の中がこんがらかって真っ白になったものでした。なんとか間違えないように必死で所作を繰り返し練習していました。

理由はよくわからないけれど、ただお茶を点てるだけなのに緊張感が半端ないことが不思議でした。

茶道をそれまでやったことのない私には、母とのお稽古は楽しくても先生のお稽古の日が結構苦痛でした。先生やベテランのお弟子さんに並んで、お手前をいただくことだけでも手足が震え、ド緊張です。

しかも所作を間違えるたびに皆さんの冷たい視線が痛く感じられ、母がいなかったらとっくにもう嫌だと投げ出していました。

「一人だけ出来が悪くて嫌だ」「失敗を見られるのが恥ずかしい」

ある時、母に言ったことがあります。

母はじっと私を見て言いました。

「茶道はね、茶の道って書くでしょう。つまり、茶道を目指す者は一人一人が修行の道を歩んでどこかに到達するために修行をしているの。みんな道の途中だから、みんなが修行者。

あなただけができないんじゃなくて、みんなが未熟であるの。ただ、未熟の度合いが違うだけ。だから、あなたがやったような間違いや失敗はすでにみんなが経験していること。

自分の失敗を認めることも、他人の失敗を見ることも、修行なのよ。

それに、失敗は「今この人はこの段階なのだな」という証。ただその段階にあることを受け入れて、その段階を乗り越えていく。失敗の本質は、まだうまくできない段階であるということに過ぎないのだから、出来が悪いとか恥ずかしいとかじゃなくて、堂々としていなさい。あなたのための修行なのだから、失敗を恐れなくていいのよ」

母はたまに良いことを言ったもんです。おっちょこちょいの母のことですから、きっと今までに私以上に失敗を重ねて茶の道を歩んできたのでしょう。

母はこうも言っていました。

「茶道はね、今目の前にいらっしゃるお客様のために今この瞬間に自分が何ができるかってことが大事なの。所作はそのための型。自分のため、目の前の相手のため、心を静めて一つ一つの型に集中して。そうしたらきっとその中に何かが見つかるから」

母は決して所作にうるさい人ではなかったけれど、茶道を通して様々なことを教えてくれました。

今インテリアの仕事をしていて、まだまだ未熟だなと痛感する場面は多々ありますが、萎えそうになる心を「まだ道の途中なんだな」と奮い立たせてくれるのが、あの時の母の言葉だったりします。


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