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「小さい声でしか語れないこと」を聴くこと、話すこと

内田樹さんの著書で「複雑化の教育論」の冒頭に「教室」について記述があります。良い教室は、小さい声で話してもきちんと聞こえるのだと言うのです。生徒のつぶやきや、何かを話そうとする息遣いも分かる、音の通りの良さがあることが大切だと。なぜならば、「生まれて初めて口にする言葉は大きくならない」からです。

「大きなはっきりした物言い」を求められると、人は定型的な言葉しか話さなくなってしまうと内田樹さんは指摘しています。教育の場は、今まで知らなかったこと・気づかなかったことに初めて触れ、人が変化していくことを支援する過程なので、おのずと今まで考えたことがないことを「初めて口にする」ことが多くなるはず、と。

私はこの本を読んだ時、子どもが言いにくい頼み事をするときや、悪いことをしたと思って事情を話したり謝ったりするときに、聞き取れないような小さな声で話すのに対して、「大きな声で、はっきりと言いなさい」と言っていたことを思い出しました。
大きな声で、はっきりと言ってくれると、大人はわかりやすいから。
または、子どもの輪郭がはっきりしないあやふやな思考に寄り添って、一緒にまだ曖昧な考えの形を探ったり考えたりすることが面倒だったから。

社会で働く中で、論理的な思考、クリアな言語化、結論が明確であることなどは必須スキルで、これができると周りから信頼されたり評価も高くなります。効率的に多くの人に動いてもらうためにはもちろん大事な能力だなと思います。

一方で、自分が持っているフレームワークに当てはまらないこととか、ふとよぎった違和感をとっさに言葉にするのは、大きな声ではっきりルールは添いにくく言葉にするにはかなり勇気が必要です。はっきりした物言いをする自信はなく、定型から外れることを話して馬鹿にされるのでは?と言う気持ちが働いたりもします。
ですが、イノベーションとか創造性の種ってこういうところに潜んでいるのかもしれないとも思います。大きな声で、はっきり言いにくいよう考えが頭をよぎるとき。

子どもの頃から「大きな声ではっきりと話せる」ことが褒められたり良いこととされて、逆に「小さい声でしか話せないこと」には価値がないという中で育つと、自分の中にある輪郭がはっきりしないものについて、誰かに伝えたり話したりすることを自然と避けるようになってしまいますよね。

とくに内向的な傾向が強いとか、HSPとかの人にとって(私、そして私の子どもたちです…)人に自分の考えや意見を言うことのハードルはよりより高く、エネルギーを要します。ましてや小さい声でしか言えなさそうなことを自分が発言するのは恐怖に近いものがあります。
それだけに、誰かが自分の感じる違和感や形にならないものを発言したり発信したりしているのを聞いたり読んだりすると、なんて素晴らしいことかと思います。

私は子どもに「小さい声でしか話せないこと」にはとても価値があることなんだと、遅まきながらちゃんと伝えていきたいと思います。そして私も含めて、自分が生まれて初めて口にすることを語ることを恐れないで、どうにかこうにか言葉にしていく練習をしていきたいなと思います。

小さい声でしか話せないことは、確かにどこにも行きつかないものもたくさんあるるでしょうが、新しく生まれてくるものはその中にしかないようにも思えます。みんなが安心して話せる固定化した言葉や考えを繰り返しているだけではもったいないですよね。言語化する能力が高い人だけに任せておけば、と言うことではないと最近思います。どんな人の中にも独特の視点があり、人生の経験があり、その人だけの発想があり、その人だけの言葉があるのに、表に出さないままになるのは残念です。
馬鹿にする人がいるとしても、小さい声で話すことを聴きたいという姿勢の人は必ずいると思うと勇気が出ます。私自身も小さい声の話を馬鹿にせずに聴く人であろうと思います。

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