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思い込みのキャラを脱ぐ。「スポーツをたしなむ側の世界線」

先日、ボルダリングのコンペに出た。ビギナーでも参加できる、いわゆる草コンペというやつ。よく行くジムで開催するというので、軽い気持ちでエントリーを決めた。

エントリーしてから気が付いたが、スポーツの大会に出るというのは我が人生で初めてのことだった。運動苦手、体育嫌い、部活は文科系だったもので全然縁がなく、自分から進んでこういうイベントに参加する日が来るなど思ってもみなかった。

なんだか違う世界線に来たみたいだと思った。

運動が苦手なのは仕方がないよ、遺伝子だから。と母に言われたことを、そうなんだな~と普通に受け入れていた。実際、走るのも泳ぐのもクラスで最下位争いしていたし。姉もまあ運動ができるほうではなかったので、尚更「そっち側」の世界には永遠に行けないと固く信じていた。
子供の頃体育の授業で膝を大けがした後、手術してもいまいち全快にはならなくて、もしかして一生ちょっぴり不自由な体で生きていかなきゃならないかもしれない、となっても、もともとスポーツできないんだから私にはお似合いでしょ、なんて思っていたくらいだった。
勉強はできるけど運動はからっきし、のキャラをいつの間にか守って生きてきた。

大人になり、ボルダリングを習慣的にやるようになると、自分がこんなにも楽しんでスポーツができていることに時々急に気がついては、その度ザワザワと胸が高鳴った。「こっちにいる」と。

客観的には決してすごいことをやっているわけではない。一般人の趣味レベルであり初心者を少し抜けたくらいだけれど、私にとっては本当に世界がひっくり返るほどのあり得ない展開だった。たぶん、「そっち側」がずっと羨ましかったんだと思う。私に永久に足りないもの。一段上の人種が存在する世界。だと思っていた。

コンペ当日、ジムに向かう道の途中で、ああ、今私は自分で選んだ道を歩いているんだな。と思ったら、少し涙が出た。こうありたいと願った自分に、私は自分の足で少しずつ近づいている。

もしかして人生って、やりたいことをやってもいいシステム…なの? そんなウルトラポジティブなことがある?

キャラを脱いだら、笑われないだろうか。からかわれないだろうか。調子に乗っているといっていじめの対象にならないだろうか。

そんなのは全部、子供の頃の狭い世界が産んだ脳内ノイズだ。ここは東京。わたしは大人。ふつうの人から尖った人までいろんな人がいる中で、スポーツをたしなむことはもちろん何ら異端ではない。
デパコスを買ってもいい。おしゃれして歩いてもいい。アウトドアの趣味があってもいい。

ちなみにコンペの結果は散々だった。下から数えたら表彰台だった。
あの頃と違うのは、こういうコンペはだいたいレベル別に細かくカテゴリーが設定されていて自分に合ったレベルのところにエントリーするのだけど、ほぼ真ん中のカテゴリーに挑戦したということだ。

実力から言えばひとつ下のカテゴリーでもよかった。出来ることを着実に、「鶏口となるも牛後となるなかれ」でずっとやってきたはずなのに、今回はなぜか敵わない課題の前に立ちたくなった。その方が、これからおもしろくなりそうな気がしたから。

人生はドラマティックだ。

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