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私は仕事を選択できたのか? 「はたらくおとな」

普段サービスを受けるとき、例えば美容師さんとかスポーツジムのスタッフと接したりするときに『この人はこれが仕事なんだよなぁ』と妙な感想を抱くことがある。職業というか職業選択に私はたぶん興味がある。オタクとしてイベントに参加したとしても、その小道具ひとつ、調達して経費精算した人がいるのだ。全体の段取りを組んでリードした人がいるのだ。すごい。みんながどうやってその仕事に辿り着いたのか、辿り着こうと何を考えたのか。あらゆる職種の人に聞いてまわりたい。

よく考えて欲しいのだけど、職業選択の自由があると言われてはいるものの、本当に自由に選択している人なんてきっといない。生まれた場所や経済的制約があること以上に「知らない」。この世にはどんな職業があり、どうやってその仕事に就くのか。私はもっとたくさん知りたかった。職業を選ぶよりも前に。まあ今でも知らないんだけど。
別に今の仕事が嫌なわけではないけど、なんとなく選択を重ねるうちに流れ着いた先がたまたまここだっただけだ。ひとつ選択が違えばきっと違った職業だった。私の選んだ道は正しかったのだろうか。


小学生の頃はゲームを作る人になりたかった。中学生ではインテリア雑貨のお店のオーナーになることを考えたこともある。でも実際にその道に進むことは無いと薄々思っていた。どちらも、好きなことだったからだ。私が面白いと思うということは、多くの人もそう思うということ。競争率が高いところで頑張れるか? センスが勝負の世界でやっていけるのか? 私はまったく自信がなかった。
それに、好きなことを仕事にするよりもっと優先したいことがあった。一人でなんでもできる権利が欲しかった。つまり稼ぐ力だ。そのためには、みんながそんなに好きじゃないことだったり、難しいことを仕事にするほうがいいのかなと漠然と思っていた。進路選択をする段になって、結局好きを優先できないことが私は後ろめたかった。国語の先生は本が好きで、ピアノの先生は音楽が好きで、当時住んでいた街にあったインテリア雑貨のお店のオーナーはおしゃれなインテリアが好きなんだな。それに比べて自分はなんと小賢しいのだろうと。

そう言いつつも、高校では紺のハイソックスが履きたくて、靴下の指定がない高校を選んだ。靴下指定の高校のほうが大学進学には有利であることはわかっていたんだけど、どうしてもスクエアトゥの茶色いローファーと紺のハイソックスを合わせたかった。大学は、おしゃれな街が近くにあることを決め手として選んだし、就職するときは「ヒールを履いて出勤して、白衣を着るような仕事がしたい。かっこいいから」などと考えていた。動機がぜんぶペラペラなのだ。
社会貢献したいとか、人の役に立ちたいとか、そりゃ全くないわけではないけど、私のモチベーションはどちらかといえば低次元だ。まるで「好き」を仕事にできなかった分をチマチマと取り戻すように、かっこよくてオシャレでかわいくて…を社会人歴十数年の今になってもまだ求めている。社内報なんかで「私のライフパーパスは、自分の能力で社会に貢献すること」などと言う人を見ると完全に生まれた世界が違うなぁと思う。

だけど、好きなことを仕事にしなかった割に幸運にも仕事を好きになることができたのは、きっとそういう根っこのカッコよさ、ワクワク感みたいなものを優先して選択を重ねてきたからだと思う。新卒で入った会社でフラスコを振っているとき、『あっそうか、これ私の仕事なんだ』とドキドキしたのを鮮明に覚えている。私の仕事は簡単に言えば化学分析で、もちろん難しい勉強もたくさんあるけど、先述した低次元のモチベーションにここまで支えられてきている。なんかカッコいいじゃん、っていうだけで。


たぶん私は進路を選ぶ段階で、ペラペラのモチベーションを持っていて良いんだと思えなかったのだ。でも今ならそれでもいいってわかる。崇高なモチベーションは私に似合わなかった。だからこそ、10代の若いうちにもっといろんな可能性を考えてみたかった。好きを仕事にすることに囚われずに。

まあそれでも最初に「東京で働くOLになりたい」が出てきそうな気もするが。

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