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好きなもの全てを好きじゃなくていい 「母と八朔と私」

果物が好きだ。ただし食べるときは一口で食べられるサイズに切ってからと決めている。キウイは丸ごと皮をむいて切るし、バナナも皮をむいて2センチくらいにちぎる。

何故かというと、皮膚がベタベタするのがなんとなく苦手だと気付いたからだ。そういえば私は夏が苦手だが、多分暑さそのものよりも汗をかいて肌がベタつくのが嫌で夏が嫌いになっている。うすら弱い感覚過敏なのかもしれない。ウールのセーターなんかもチクチクが気になって着られないし。

母は柑橘類、特にはっさくが大好きで、私が子供の頃、夕食後に家族がいる居間に丸ごと1個か2個持ってきて、チラシの上で剥いてみんなで食べることがよくあった。私はチラシの外に果汁が飛ばないように気をつかうのも嫌だったし、食べながら指の間がベタベタするのが嫌で、はっさくはハズレの果物だと思っていた。母が美味しそうに食べるのを見るのは好きだった。

母が朝食に出してくるキウイは皮ごと半分に切ってスプーンで食べるタイプだった。グレープフルーツも横半分に切って先がギザギザのスプーンですくう方式だったし、最後に皮側を手に持って絞り、ジュースにして飲むように言われていた。父の好きな果物は巨峰で、房からひと粒ずつちぎり、少し皮を剥いて半分食べてから種を出し、残りをちゅるりと食べる。オレンジは皮ごとくし切りにしたスマイルカットだった。

全部、手がベタベタして嫌だなと思っていた。当時いちばん好きだった果物はりんご。既に切ってあって果汁で手が汚れないから。

母に文句があるわけではない。果物を食べる習慣がついたのは立派な食育だったと思うし、朝晩に用意する4人分の季節の果物は、それほど裕福ではなかった私の家庭にはぜいたく品だったはずだ。そして実際、皮をむいて食べやすいように切るのはけっこう手間がかかる。

もし、手のベタベタが嫌だと言えたらどうだっただろう。なんで? そんなの、手、洗ったらいいじゃない。などと言われて、私はそれ以上は何も言えなかったと思う。
幼い私は自分の感覚を信じることはできていなかったし、それをうまく説明する言葉も持っていなかった。
大きすぎる桃のひと切れを口に含むとき、口の周りに果汁が滲むのはうっすら嫌だったけれど、私が桃が好きだからと勧めてくれる母に"そんなの"でわざわざ波風立てる必要なんてない。ただでさえ、誕生日のケーキをあんまり喜ばないような甲斐のない子供だったから。

そこそこ大人になっても母と私はイマイチ噛み合わなかった。言葉を尽くして話しても返事にはしばしば否定の言葉が挟まり、やめてほしいと言ったこともいつのまにか忘れられてしまう。
たぶんお互い持っている言語がすこし違ったんだと思う。何度かの挑戦を経て、私はいつしか言葉を尽くすことを諦めた。何かが悪かったわけではなく、よくよく探しても母にいわゆる毒親の要素は見つからない。家族思いの母と、ふつうの子供だった私。
お互い選んで親子になったのではないのだから、そういうことだってあるんだろう。親は子の、子は親の全てを好きになる必要はない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、じゃなくて、坊主は憎いけど〜、待ってその袈裟めっちゃいいじゃんウケる。の精神でいきたい。

今では母は、私が健康でいること以外にはあまり興味がないようで、正月と誕生日、荷物を送るときなどの事務連絡くらいしか付き合いがない。実家に寄り付かないことをうるさく言われるようなこともなく、本当にありがたいと思う。
それでも、世の中的に良いとされる子供の役を演じきれないことに、今も薄く罪悪感を感じながら私は生きている。

我慢できるけどできれば避けたい、そういうことは、自分で除いていけばいい。季節になると毎週のようにはっさくを買ってきては、母がしていたように皮に十字の切れ込みを入れて固い皮をむき、中の房をひとつずつ剥がす。薄皮をむいて、果汁が出ないように3つくらいに分けながら果肉と薄皮を分離する。

自分が食べるついでに、夫にも皮をむいた果物を用意するのだと言うと、友人はみんな甘やかしすぎだと言う。そうではない。違うのだ。甘やかしているのは、小さい頃の私。うっすら嫌だったことをついに言えなかった私に、今、薄皮をむいてあげている。

はっさくは美味しい。柑橘類の中でいちばん好きだ。

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