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君が見ている世界には。「認知されたい人、見つかりたくない私」

ドルオタの先輩がいる。
めちゃくちゃ仕事ができるわ、子煩悩でお子様も優秀だわで一見カッコいい大人だが、地下アイドルに重課金しているしお酒を飲めば確実に深酒、出てくる話は書けないレベルのクズエピソード、という尖った人材だ。良い。

新卒で入った会社でオタク話にも引かないやつとして可愛がってもらい、その後私が転職したので今は会社は別々だけど、年に1回くらい思い出したように飲みに行く話になる。それでお互い好き勝手に推しの話をするのだが、先輩と私では決定的に違う性質がある。

推しに認知されたいか、されたくないか。

先輩は推しに明確に覚えられるくらいガンガン認知されに行く。お金を払ってチェキを撮るとアイドルと直接話すことができるという世界を教えてもらって眩暈がした。
私はできれば見つかりたくない。公式動画にコメントはもちろん、Twitterをフォローすることすらできない。

一般的にイメージされるオタク像は前者だと思う。後者のオタクをやっていると、「そうは言ってもチャンスがあれば付き合いたいと思ってるんでしょ? え、じゃあ何で異性を推すの?」などと言われる。うるさい。すぐ「好きなんだ!じゃあ結婚しろよ〜」とか言う小学生か。

私が思うに認知されたくないファンは一定数いる。程度も理由も様々だとは思うが私の考えは、"推しのいる世界を動かしたくない"。
この前読んだ品田遊さんのエッセイで、二次元アイドルを推すことならできるけど本来の三次元のアイドルの人間を推すことはできない話が出てきたが、ちょっとわかる気がした。現実だけど向こうの世界であってほしいような、それならば自分と関わるのは違うような。

推しとの関わりを考えるとき、いつも思い出すことがある。
大学の量子力学で、「電子はその位置と運動量を同時に正確に測定することはできない」という原理を習った(ハイゼンベルクの不確定性原理)。
超ちっちゃい粒子の世界では、その位置を観測しようとしてたとえば光を当てると、光というエネルギーが当たったことで粒子は動いてしまい、位置が変わってしまう。観測するということは、その対象物を変化させることと切り離すことはできないのだ。(大学時代の私の解釈なので学術的な細かいニュアンスは違うかもしれない)

私が何かアクションをすることで推しの世界が動くことに違和感を感じる、と言ったら先輩には理解してもらえるのだろうか。推しから見た世界が変わらないように、できるだけ「よく居るファン」になっていたくて、Twitterで私と似た感想を呟いているファンを探しては安堵している。私たちは素粒子ではないけれど、推しの世界を観測したらその位置は動いてしまう。大抵が無視できるほど小さいだけで。

だけど今の私はnoteという、憧れの人と同じ舞台を選んで日記を書き始めてしまった。本当に完全に見つかりたくないならオフラインで書けばいいのに、この現実世界で同じ体験をしてみたくなってしまったのはどうしてなんだろう。日記にスキを押すたびに、心の中でえいやと川を飛び越える。怖いのにその先の感情を体験したくて無茶をする。

登山が趣味の人の中にはあえて厳しい山にチャレンジし、死に近づかなければ生を感じられないタイプの人がいる。バカみたいだなと笑ったことがあるけれど、私も同じなのかもしれない。
推しの世界を観測するのは怖いのに、自分と同じ世界にいることを感じられなくなったら、それによってこの夢中な気持ちがなくなってしまったら、現実世界なんてなんかもういいかなと思う瞬間がふとやって来そうで、それはそれで怖いのだ。かけがえのない人を作ることでようやく生に執着しているのに、その人に体重を預けるのは怖くて躊躇する。矛盾ばかりだ。普通に生きるのは案外に難しい。

だから私は推しに認知されたい側の心理はどうなっているかも知りたい。もしかして認知されたいことと、代わりのきかない推しが心に存在することは別なのか。飲みのたびに先輩に話を振るけれど、お酒が入った先輩の話はいつも要領を得ない。

そうなるのはわかっているのにまた飲みに行き、お互い好き勝手に推しの話をする。

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