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色字共感覚の世界「奇数はソリッドカラー、偶数はスモーキーカラー」

数字や文字に色を感じるタイプの共感覚を持っている。色字共感覚というらしい。概念を知ったのが二十歳を超えた頃だったのでそのまま生きてきてしまったけど、できれば来世では脳科学の研究者になりたい。人の認知はこんなにもバリエーションに富んでいて、おもしろい。

共感覚は複数の感覚を同時に知覚することで、音に色を感じたり、においに感触を感じたりする。研究にもよるけど共感覚を持つ人は全体の約10%と言われていて、だいたい左利きと同じくらいの割合だという。けっこういるな。文字や数字に色を感じるのは共感覚の中では最もポピュラーなタイプだそうだ。

文字と、それにくっついてくる色の組み合わせは共感覚を持っている人同士でもそれぞれで違い、したがって言語として使うことはできない。役に立つのは自分の頭の中でだけだ。

あくまで私の場合の話。
覚えたいことを紙に書いて色情報とともに記憶しておけば、次に記憶を呼び出したとき、それが合っているか間違っているかを判断するのは簡単だ。「なんか色が違う気がする」で書き直し、「こんな色だった気がする」でだいたいOKだ。ID(文字)とパスワード(色)が合致した瞬間しっくりくるので、記憶の確度が高くなる。
A4で1.5ページにわたる数式の証明問題を共感覚による暗記で乗り切ったときは、何だっけこれ?という気持ちになった。でも基本、助かっている。

代わりに致命的な欠陥も持ち合わせている。頭の中で計算ができない。

共感覚の人は曜日や月を決まった空間配置として認識している場合が多く、例えば曜日がマスキングテープみたいなドーナツ状の物体外周にぐるっと書いてあるようなイメージを持っていたりするらしい。
私の脳内では自然数の数直線が足下から2時の方向へ伸びていて、10より先はマイナスz軸方向に折れ曲がっているせいでこちらからは見えない。計算はこの数直線の隣に数字と同じくらいの(なぜか厳密に同じではない)長さの棒を添えて考えている。10を越えると棒が数直線に沿わなくなるので数を見失う。このわからなさはかなり絶望的にわからない。
だから繰り上がりの足し算は勘でやっているし、何なら一桁の足し算もたまに間違える。7足す6を電卓で叩いているときは「不便だなぁ」と思う。7足す6はいつも13なのに、毎回、粘土みたいな棒を積み重ねて10のむこうにはみ出した様子を想像しては「わかんねぇなぁ」とつぶやいているのだ。

共感覚と数字の空間配置の間には一見関連はないようにみえるが、共感覚者はこういった配置をイメージする人が有意に多いらしい。たぶん脳の中では、何かしら繋がっているのだろう。

つまり小学生のころ、けいさんドリルが辛くて泣いていたのは私の努力不足ではなく、認知特性によるものだったのだ。苦手を克服させようと親に公文式に送り込まれることなどがなくてよかったなと思う。私にとっては記憶力と暗算力がトレードオフなのだから。

今では計算ができないことで落ち込んだりしない。それと、自分の記憶が人と異なる道筋でできていることがわかったので、他人へ何か説明するときは手順をよく考えるようになった(昔はよく話が飛ぶと言われていた)。
そもそも算数が泣くほど苦手だったのに数学は概念の理解の話なので相性が良く、さらにサイエンス方面に興味もあったのでバキバキの理系を選んだのだった。マジか。暗算ができない理系がここにいます。

ただ、私の認知特性に運良く名前がついていただけで、解読不能な認知特性によって勉強の一部がどうにも苦痛、という人もいるんじゃないかな。子供は教えられたやり方をとりあえずやってみることしかできないから、辛いと思っても我慢して続けて、勉強が嫌いになってしまうことも十分考えられる。だとしたらあまりにも不憫だ。本人に何ら責任はないのだから。

自分の認知特性を自覚してから、得意・苦手・好き・嫌いを超越した脳の仕組みがありそうな気がして、何かにつけて共感覚のことを考えている。しんどい思いにも、大好きと思う仕組みにも、たぶん脳内にそれを生み出す理由がある。一歩踏み込んで考えたら答えが見つかる気がしてぐるぐると探してしまうから脳の中はいつも忙しい。ぴったりくるような答えはないけど、心配事で頭をいっぱいにするよりはよっぽど健康的だから、これでいいと思っている。

ところでもちろん生まれたときから色字共感覚の世界で生きているので、そうじゃない人の世界のことは想像でしかない。他人の認知を体験できたらいいのにな。脳みそ交換してみませんか。

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