見出し画像

バレンタインデーの両義性

 今日、母がスーパーでチョコレートを買ってきた。紫色のテカテカとした包み紙にくるまれたチョコたちが、6角柱のおしゃれな紙箱に敷き詰められている。ラベルには金の文字で「Plum」と書かれていた。おいしそうだったので母に開けてもいいかと尋ねた。母は、「それはお父さんの」と返してきた。
 そうか。どうやら明日は、バレンタインデーらしい。

 どうにもバレンタインデーというものは話題に事欠かない。女性から男性にチョコレートを渡すという、誰がどう見てもジェンダー不均等な商業文化が慣習となり、この国に根付いてかれこれ40年くらいだろうか。
 スイーツ好きの私としては、バレンタインを、それを錦の御旗にお菓子にありつける格好のイベントとしてポジティブに捉えていた。小学生のときは健気にチョコレートを溶かして型に流し込んだり、クッキーを焼いてみたりと、それなりに楽しんでいた。教師の目を盗んで友チョコを交換し合うことも、ちょっと悪いことをするようでわくわくしたものだ。そしてなにより、友人が作るチョコは(すべてではないが)おいしかったし、もらえるとやはり嬉しい。小中高生にとって2月とは、合唱コンクールや運動会など一連の行事が幕を閉じた学生生活の倦怠期にあたる。今思えば、あのキラキラしたイベントは、学校に通い続けるためのある種のモチベーションの役割を果たしていたのかもしれない。
 とはいえ、いつしか私は手作りを断念し、複数のお菓子メーカーの既製品チョコをおしゃれな包み紙でラッピングしてそれっぽい仕上がりにするという、手抜きチョコを始めた。包みには「保存可」の文字を大きく記したメモを合わせて入れていた。あれはあれで友人たちから、ウケる〜〜と好評だった。数々の手作りチョコが賞味期限切れで各家庭のゴミ箱行きとなる一方、私のチョコレートたちは延命に成功したのである。
 さて、こう思い返してみるとどれもこれも今となっては青春の1ページのようだ。しかし、果たしてバレンタインデーはこのようなきらきらの青春イベントと捉えてしまっていいのだろうか。「青春」と一言で丸めて美化することは簡単だろう。しかし、それで終わらせることができないのがバレンタインデーの難しいところなのだと思う。そしてこれが、日本社会において今、バレンタインデーが話題に事欠かない所以なのだ。

 なぜ、私は手作りをやめ、いつしか既製品を詰めるようになったのか。端的に言うと、面倒くさくなったからだ。クラスメイトの男子たちは悠々と2月の倦怠期を謳歌している。その傍ら、我々女子生徒は材料の買い占めからレシピの捜索まで、14日に向けて走り回る羽目になる。なんということだ。不公平ではないか。そういう思いが私の中に芽生え始めたのだ。特に告白の相手もいなかった私にとって、チョコ作りは本来ならやらなくてもいい労働だった。しかし、友人がくれるのだから、ただでもらうことはできない。お返しをしないといけない。中には、そこまで仲がいいわけでもないような子も含まれる。
 日本においてバレンタインデーは、いつしか、女性が愛する男性にチョコレートをプレゼントし、思いを告げる日ではなくなった。この恋愛概念が取り除かれ、女性が不特定多数にチョコレートを振る舞うサービス提供日の意味を帯び始めたのである。男性はそれをただ享受すればよかった。しかし、女性はサービスの行為者を強制されるようになった。
 もちろん、好きでチョコレートを作ったり、振る舞ったりすることは自由である。そうしたサービス精神旺盛な人たちは、誰もがプレゼントした相手からお返しを期待しているわけでない。私自身、「保存可」のメモを笑って受け取ってくれる友人たちの様子を見て、純粋に嬉しく思ったものだ。
 つまり、何者かが私たち(主に女性)にチョコレート作りを強制しているのではない。この友チョコ、いや、友チョコという名の義理チョコ文化が、慣習化された文化として、私たちにこのチョコレート配布サービスを強制しているのである。
 2018年のゴディバの広告をきっかけに、このような義理チョコ文化の両犠牲が大きく顕在化されたことは記憶に新しい。時には男女問わず、会社内で上司から部下へ、部下から上司へと、このチョコレート配布サービスが慣習化されているという。きいた話によると、チョコレートが高級ブランドのものか、そうでないのかまで見定められるというのだから、ちょっと恐ろしい。海外メディアでも、このような義理のチョコレート交換という日本特有のバレンタイン文化についてしばしば報道されている。
 この文化という、今となっては誰のせいでもないシステムが特定の誰かを苦しめている。発端のモロゾフを責めることはできないし、私はモロゾフのりんごチョコレートが大好物だ。ダメだぁ責められない。では、どうすればよいのか。中学生のときの私は、この義理チョコ文化のシステムに少しでも抗おうと、保存できる既製品の詰め合わせという、ちょっとずらした技を編み出した。今思えば、これはかなりパフォーマティヴな実践だったのではないだろうか…

 さて、ここで、義理ではなくて本命ならいいのかというと、もちろんそれは違う。女性から男性へ、というジェンダー非対称な文化であることにはかわりない。
 さらに言うと、義理チョコであれ本命チョコであれ、渡す側だけでなく受け取る側(主に男性)もまた、どうやら苦労しているらしい。チョコレート配布サービスをただただ享受しているというわけでもないことがわかった。
 昔、個別指導塾で講師をしていたとき、受け持っていた男子生徒たちに、もうすぐバレンタインだね、と話をふったところ、「チョコレートもらえるかなぁ」と無邪気な回答が返ってくるかと思いきや、思いもよらず彼らは愚痴り始めた。
 いわく、義理チョコはお返しするのが面倒で、かといって本命チョコはもらっても重いから嫌なのだそう。正直、もらえることを前提にしている時点で君たちはカーストの上位層だな、と想像してしまったし、もらえるだけ喜べと、その高慢さを叱ってあげたくもなった。もしかしたら、女性講師の前で見栄を張っていたのかもしれない。なんにせよ、たしかに彼らの不満はわかる。義理チョコのやりとりが面倒くさいことは私たちとて同じだ。本命チョコが重いという彼らの主張も、裏を返せば、相手の気持ちに真正面に向き合う気持ちを持っている証拠とも考えられる。
 とはいえ、良くも悪くもバレンタイン文化のイニシアティブを強制されるのは日本では主に女性の側だ。彼らは受動的に構えていればそれで済む分、楽なのだ。あの時、彼らにその事実をきちんと伝えなかったことを、今私は後悔している。

 他方、国によっては男性から女性に花束やプレゼントを贈る日になっているという。ヨーロッパの友人からは、日本の女性は主体的でいいね、とむしろ褒められてしまった。フランスの友人の家庭では、毎年2月14日は、夫から妻へ花束を贈るのが恒例だという。一昨年、私はこの話をきいて羨ましくなり父親に伝えたところ、LINEで花束のスタンプが送られてきた。

 チョコレートであれ花束であれ、義理であれ本命であれ、バレンタイン文化は自分ひとりで完結しない。他者との関係性の中で形作られている。たとえば、節分に恵方巻きを食べる文化は、ひとりで食べればそれで終わる(もちろん、食品ロスやそれにともなう環境破壊などメタレベルで自己完結はできないだろうが)。一方、バレンタインデーは必ず、渡す側と受け取る側の2者関係の中で行われる。ここに、これまで書いてきたようなジレンマが生じてくるのだろう。

「それはお父さんの」
 母にそう言われた姉が、「ふーん」と返してチョコレートの箱を開けた。中から3粒取り出し、ひとつを母に、もうひとつを私に手渡した。私はエナメルの包み紙から楕円形のチョコレートを手のひらに乗せ、ぽんと口に入れた。すももの酸味とダークチョコレートの相性が抜群で、とてもおいしかった。こうして、「お父さんの」チョコレートは、私と母と姉と、3人でお先に堪能された。

 今年の我が家のバレンタインデーは、こんな感じである。

以上

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?