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#20 「 Good Morning 」


からだのラインがはっきりとなぞれる赤いニットのワンピースを着たその女は、朝の通勤ラッシュの車内でわかりやすく場違いだった。
甘いアルコールの匂いと安っぽくて粉っぽい化粧の匂いを振りまきながら、力なく吊革にぶら下がってメトロの揺れにからだを預けている。
横に並んで立っていた中年のサラリーマンが、スマホの画面からチラリと目線を移し、女のどこかの何かを確認して小さく頷く。
俺は女の後ろで、空調の風に煽られる枝毛だらけの髪の毛を避けながら本を読んでいた。

間もなく次の駅に到着しようかという時、運転士が雑にレバーを操作したとしか思えない、いきなりなブレーキがかかった。
女はその反動で大きくよろめいて、履いていたハイヒールの、まさにヒールの先で俺の左足の薬指を力強く踏み抜き、きっぱりと骨が砕ける音がして、俺が「痛い!」と呻くのとほぼ同時に少量のゲロを漏らした。
「信号停止のためにブレーキをかけました。お急ぎの皆様には大変ご迷惑をおかけいたしますがしばらくお待ちください」と、清々しく無責任なアナウンスが車内に繰り返し響いている。

さっきまでのすし詰めがウソのように俺と女の周りには小さな輪ができて、そこには心配というよりは迷惑がる雰囲気が漂っている。
女はワンピースの袖で口元を拭いながら、「ら、らいじょぶ、れすか?」と怪しい呂律ろれつで俺に訊く。
俺はそれには答えず、気が遠くなりそうな痛みに耐えながら、ヒールの痕がついた靴の中の惨状を確認しようとしゃがみこんだ。
すると、そのタイミングを見計らったようにメトロがガクンと動き出し、女が再び俺に襲いかかってきた。
し掛かる女のからだを辛うじて両手で受け止めたが、踏ん張った衝撃で左足はとどめを喰らった。
女は俺の肩にもたれたまま、「らい、ら、らいじょぶれ、すか」と言い残して動かなくなった。
最早、自力で立ち上がることもできなさそうだ。

ゆるゆると入線する車窓から、ホームに並ぶ大勢の通勤客が目に入った。
この状態でドアが開くと、乗り降りするヤツらに踏みつけられしまう。
これ以上、痛い思いはしたくない。
俺は脱力した女を背負い、右腕を伸ばしてドアの手摺を掴むと、右足にグッと力をこめて立ち上がった。
左足先は痺れて感覚を失っている。
遠巻きに見ていた輪の中から「おお!」という声が聞えたが、手を貸してくれる気はさらさら無いようだ。
それどころか、ドアが開いた途端に彼らは我先へと降りようとするから、俺たちは弾き飛ばされてしまった。
それでも、踏みつけられるよりはマシだろう、
ホームの壁際まで避難して女を降ろすと、左足の痛みと共にじわじわと怒りがこみ上げてくる。
このまま放っておいてもいいのだが、それだと治療費を請求できない。
仕方なく病院まで連れて行くことにする。
そのうち酒が抜けて正気になるであろうことを期待して。

俺は再び女を背負って改札を目指した。
痛む左足を庇いながら女を引き摺って歩いていると、ホームにいるヤツらがやけに冷たい視線を送ってくる。
改札を抜ける際の駅員までも。
大方、女を背負ってふらふら歩く姿が、朝帰りの酔っ払いバカップルにでも見えているのだろう。
まあ、いい。
今はそれどころではないのだ。
小さなエレベーターに乗り込み『地上階』のボタンを押す。
背中に押し付けられたボリュームのあるふたつのふくらみに、もしかするとこれから何かが始まるのかもしれない、などと妄想することで痛みを忘れようとしたが、効果を得られる前に地上に着いてしまった。

エレベーターを降りて、ビルの植栽を囲うブロックの縁に女を座らせた。
もう、俺も歩けそうにない。
流しのタクシーが通る場所ではないので、スマホでタクシー会社を検索して配車を頼んだ。
しゃがれ声の受付が「あんたは運が良い。5分くらいで迎えに行ってやるよ」とウィンクをする。
痛みのせいか、まだ妄想が続いていた。
さておき、これでひと安心だ。
女の横に並んで腰を下ろそうとしたら、女のハンドバックの中でクラシカルな着信音が鳴り、あれだけぐったりしていた女が瞬時に反応してスマホを手にとった。

「ヒロシ!ううん、あたしも悪かったの。ごめんね。やっぱりあなたじゃなきゃ、あたしダメなの。やり直したい!ねぇ、ヒロシ、お願い!え?お金払えなくて電気止められた?スマホの充電切れそう?お腹も減ってるのね。わかった!直ぐに行くから!あたしがあなたを守るから!」

女は電話を切るや否やふらりと立ち上がると、今乗ってきたエレベーターのボタンを連打し始めた。
「おい・・・」
俺の声はその背中には届いていない。
おそらく永遠に届かない気がする。
なかなか開かないドアに「ちっ」と舌打ちした女は、辺りを見回して階段を見つけると、転がるように・・・と言うかまさに転げ落ちていった。
そりゃそうだろう。
俺より重症じゃなきゃいいけど。

タバコを取り出して火をつける。
ひと口、煙を肺に入れたところでタクシーが到着した。
植栽の土で揉み消して乗り込み「取り敢えず近くの病院、整形外科まで」と告げて会社に連絡を入れる。
「通勤中に怪我をしたから1週間くらい出社できないかもしない」と少し大袈裟に伝えたら、電話口の部長は「そのまま出てこなくても構わないぞ」と返してきたので、「病院に寄って午後には出社します」と言い直してスマホを切った。

フロントガラス越しの空が青い。

せめて、どこかに隠しカメラがあって、誰かがこのコントを笑ってくれてたなら救われるのに。

ふと、メトロの中で読んでいた本が手元に無いことに気づいた。
主人公が俺の立場だったらこう言っただろう。

やれやれ、だ。


< 了 >

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