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手放してしまった「アリス」と「ピーターパン」のこと

 成長する過程で手放してしまったものが、おとなになってから恋しくなることがある。ふと「あんなものを持ってたな」と思い出して、それまではちっとも惜しくなかったものの不在が、じりじりと存在感を増していく。たとえば今、小学校の4年生くらいのときに持っていた「不思議の国のアリス」と「ピーターパン」が恋しくなっているみたいに。

 たぶん両親のどちらかが実家で見つけて、私のために持って帰ってきてくれたものだったと思う。茶色い厚紙のケースに入った、おとな向けの小説本だった。アリスとピーターパンの本だと聞いて、ディズニー映画のきらきらと愛らしい彼らを思い描きながらページを開いたら、毒気の強いジョン・テニエルの挿絵があって、間違えてオバケの本を開いてしまったのかと勘違いした。あの険しい表情をしたアリスは、おとなになってから見直せば、癇癪持ちでつむじ曲がりの強情っ張りなところがかわいい小さな女の子だけれど、当時の私には醜く感じられて、じぶんの大切にしていた「アリス」を冒涜されたような気さえしたものだった。

 お姉さんに対して「挿絵のない本なんて」と言ったアリスを真似して、嫌な顔を作って「こんなに字ばっかりの本なんて」と突き返そうとした私に、父は「いい本だから読みなさい」と取り合わなかった。それで、しばらくは不気味な本だからと放っておいたのだけれど、やがて図書室にあったシートン動物記やインディ・ジョーンズの冒険などを経て、読書の習慣を手に入れたあと、私はやっと「いい本なのかも知れない」と納得できるようになった。本には、それぞれ手に取るべきタイミングがあることが、なんとなく分かって来ていたのだと思う。
 やっぱり挿絵が不気味だったので、とりあえず「ピーターパン」から取りかかって、それでも両方とも通読して、理解できないところが多かったことは棚に上げたまま、ひとまず「おもしろかった」と満足して表紙を閉じた覚えがある。

 それから、引っ越しが数回あった。
 私が白いレースのカーテンに隠れるようにして「アリス」と「ピーターパン」を読んだ出窓のあったマンションを引き払うとき、その両方ともがどこかに行ってしまった。たぶん、荷物をまとめたときにでも、両親が気を利かせて処分してしまったのだと思う。私はもらったときに喜ばなかったし、そもそも本を読んでいる姿を見られるのが苦手な子どもだった。ぼんやりと「アリス」より「ピーターパン」の方がおもしろかったという報告を母にしたことは覚えているけれど、私があれらの本について両親に与えた反応といえば、それくらいのものだった。私が親でも捨てたかも知れない。
 あの2冊がなくなっていることに気づいたのは、ディズニー映画の原作について興味を持ち始めた頃だったから、たぶん次の次の街に移ってからのことだった。私はちょっとがっかりしてから、またすぐに忘れた。

 そして今、またあの「アリス」と「ピーターパン」が恋しい。
 きっかけは、現在女性向けソシャゲ界隈を風靡している「ツイステッドワンダーランド」に手を出したからという、他愛ないものなのだけれど、それでもハートの女王に憧れる子どもたちが目配せをくれるたびに、私はつくづく惜しいことをしたものだなぁと、知らないうちに手放してしまっていた本のことを思い返さずにはいられない。

 ふとした瞬間に「今、あれがここにあったらよかったのに」と思い出す本があるというのは、すごくいい。過去の読書が現在の興奮に直結すると、大きなパズルの端っこでピースが合ったような感じがする。こうやって読書と経験の小さな合致を組み合わせていった先に、私の人生の全体図が明らかになるのだと思う。
 いつの日か、それなりに美しい絵が完成すると嬉しい。できるなら緻密で彩り豊かなものになって欲しい。なかに隠れて本を読んだ出窓のカーテンの白も、ゲームの開始を告げる画面の黒も、捲ったページの古びたクリーム色も、すべてが失われてしまった後になっても、そのなかに確固たる場所を占めて、楽しかったことを忘れないようにと、絶えず私に語りかけ続けてくれますように。

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