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あなたは素晴らしい人、私も素晴らしい人。


何人かに感謝の手紙を綴り、

全体を見返してみれば、書いてある内容は同じで。



『あなたは私にとって素晴らしい人。

私も素晴らしい人。

今後の人生でも、交差したら嬉しい。

交差しなくても、それはそれで、

いつか感じる懐かしさと寂しさが美しい。

無理をせず、私たちらしく、この世界で生きていきましょう。』



そういう、メッセージ。






もちろん会いにいくし、何年経とうと付き合っていたい。

僕は寂しがり屋で、素直になれないことも多いから

なおさら僕はあなたと一緒にいたい。



でもその、一緒に、というのは、

必ずしも物理的なことではなくて。





ふとした日常で、


「あぁ、元気してるかな」

「あの時はたのしかったな」

「申し訳ないことをしたけど、今の自分がいるのはあの人のおかげだな」


なんて。

なんとなく繋がっている感覚が持てたら、それは一緒に生きていると言っていいんだと思う。




物理的に近くにいられる人数には限りがあるから。


限りあるものに優先順位をつければ、そこには争いが生まれる。


繋がりは本来、僕らに落ち着きや安心をくれるもの。争うものでも縛るものでもない。

もし近づいて呼吸がしづらいなら、物理的な距離を見直してもいいと思う。



それが時を経て、調和が取れて、

思い出すだけで寂しさや懐かしさや安心をくれるなら、それは繋がっているんだと思う。




マチュピチュを一緒に歩いた、笑顔が柔らかくて甘えたくなるアメリカ人の銀行員さんも、

クスコのお土産屋で出会った距離の近いお姉さんも、

スラム街でケータイを出していた僕を制してくれた、後ろ姿しかわからない若いお姉さんも、

バスターミナルでかくれんぼした男の子たちとそのお母さんも、

カンボジアでガイドしてくれた日本が大好きなパンニャっていうお兄さんも、



もうきっと、

僕の人生で会うことはないのでしょう。


それでも僕は、

彼ら彼女らとこの世界を一緒に生きている。






袖振り合うも多生の縁。



すこしの触れ合いでも、

それは前世からの深い縁があったからだという意味。


もし、前世からの縁で出会えたのなら、

それはロマンチックで。


もし、今世からつながった縁があなたなら、

それは嬉しいことで。

来世はもうすこし、同じ場所で同じ時を過ごしたい。







あなたは素晴らしい人で、私も素晴らしい人。


詭弁かもしれないその言葉を、僕は両手で抱いていたい。








そうだ。

ペルーのワラスでトレッキングした帰りに、現金が一切なかった僕をみかねてトウモロコシをご馳走してくれたご家族とは、また会いたいな。

お互い、拙い英語で話したあのときが懐かしい。








人は矛盾を抱えて生きている。


1人でいたい、誰かと繋がっていたい。

自由でいたい、何も決まってないのはイヤ。

安定したい、変わりたい。

何かしたい、何もしたくない。

頼られたい、頼りたい。

自分で決めたい、誰かに決めてほしい。

カッコつけたい、ありのままでいたい。




どれもが正しくて、どれもが間違っている。

どうやら、正解はないってことなんでしょう、




ただ少なくとも、

人間は矛盾を抱える生き物で、

つまりは、矛盾があるからここまで生きて来られた。




それならば、

ただ矛盾を受け入れて、

手にとって、ころころ転がしてみて、

程よい距離におけたらいいね。







最後に、久しぶりに再会した好きな言葉を。


私は私のために生き、
あなたはあなたのために生きる。

私はあなたの期待に応えて行動するために
この世に在るのではない。

そしてあなたも、私の期待に応えて行動するために
この世に在るのではない。

もしも縁があって、
私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。

出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。

心理学者フレデリック・S・パールズ「ゲシュタルトの祈り」




このnoteを読んでくれたあなたとも、

一緒にこの世界で生きていけますように。







2023年9月19日
えだちゃん。


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