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なぜ、好きなことを仕事にしなければならないのだろうか。

仕事とは、何かを生産し、対価を得ることである。

対価は、多くの場合はお金である。



昨今の、「好きなことを仕事にする」風潮の強さは、一部を幸せにし、一部を不幸にする。


たとえば、コーヒー好きな人に、「カフェを開いたらいいのに」と言う人はそこそこいる。


仮にコーヒー好きが高じてカフェを開こうとすれば、

仕入れ、価格計算、集客、出店、在庫管理、接客販売、書類整理などなど、
趣味では不要な諸問題に追いかけられ、

もともと好きだったコーヒーに集中する時間が削られていく。


ましてや、働くことは〈労働〉と〈仕事〉に分けられ、

〈労働〉とは、自分が日々生きていくために必要な半強制的なものであり、
〈仕事〉とは、それをせずとも生活できる状態での自己実現の要素を含んだ選択できるものである。


先のコーヒーの事例に倣っていえば、

趣味では不要な諸問題に追いかけられるだけでなく、安易に独立などしてしまえば、日々生きていくための資金も稼ぐことができず、
コーヒーの販売を強制されることになるのである。


「好きなことを仕事にする」が正しい、本来の人間の在り方だという風潮が漂う昨今において、

いっときの感情で判断してしまう危険性はここにある。


これらの空気は、

現状への愚痴をもとにしたSNSを各企業が拾い、幅広い広告からつくられる資本主義による空気である。


ただし、発端が愚痴であるために、

結局は隣の芝生が青く見えることとなんら変わらず、根本的な問題解決からは程遠いことが多々ある。


仮に、自分の不労所得で月50万の手取りが入ってきて、仕事を辞め、週7日の休日が得られたら、
すべての問題は解決し、幸せになれるのだろうか。


そうではないだろう。



つまり、考えるべきは、

「好きなことをどうやったら仕事にできるか」ではなく、

「どんな状態が幸せだと感じられるのか」である。




いま、多くの人が求めているのは、意味である。


日常的なことでいえば、

モノを買う意味、本を読む意味、誰かといる意味

大きくいえば、

仕事をする意味、生き物を殺して自分が生きる意味(=食事)、自分が存在する意味


といったことであろうか。


これらは、なにかしらの欠乏感を抱く人が感じるように思える。


欠乏感とは、あるはずの何かが無いように感じられることと言える。

つまり、あるはずの何かなんてなかった、あるいは、あるはずの何かは手元にあったと感じられれば、解決するはずである。



なお、私には欠乏感と喪失感は違うように思える。

次のワンピースの例は、喪失感からの脱却である。


ジンベエが
「失ったものばかり数えるな!(〜中略〜)残っておるものはなんじゃ!」

と問いかけ、

ルフィが「仲間がいるよ」と答えた。


これを機に、2年という短くも長い時間をそれぞれが修行(自己実現に至る過程)にあて、晴れて復活を遂げるのである。



これは、仲間を守れなかったことから発した喪失感からの脱却である。

では、喪失感と欠乏感の相違点はなにで、共通点はなにか。


相違点は、

喪失感は、明確な何かを失った感覚。

欠乏感は、なんとなく何かが不足している感覚。


共通点は、脱却する方法である。

つまり、失った、あるいは不足していると感じられる何かを感じられることである。



これらの脱却については、別の記事でいつか述べるとして、タイトルの話に無理やり戻せば、

おそらく、「好きなことを仕事にする」は、「仕事という苦役をする意味」に対する答えのひとつだったのだろう。

それがいつしか、「好きなことを仕事にできていないと不幸」という雰囲気に変わってしまった。


冒頭で述べたとおり、好きなことを仕事にする必要性は必ずしもないだけではなく、大きなリスクを孕んでいる。


あくまで仕事は人生の一部であるからこそ、

「どんな状態が幸せだと感じられるのか」を考え、自分の人生のどこに仕事を位置づけるのか、そのうえで、好きなことをするのか、そうでないのかを考えたい。



そのプロセスが、現代の多くの人が求める意味にたいしての答えのひとつになり得ると信じたい。



多くの人が、欠乏感の先に意味を求める。

自身の為すことの意味、または、意味を持つことが不要だと思えれば、手元にある幸福を感じられるのだろうか。

今度はその先に、何があるのだろう。

この議論は、無いものねだりのループから抜け出せているのだろうか。




2024年4月21日
えだちゃん。

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