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動物の方が人間よりもリアルに思うこと

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クレセントボード アクリル絵の具(2001年頃完成)
これからまた、マスター•ヨーダに続き、生きている絵を描いていこうと決めたものの、いつ仕上げられるのか?検討も出来ないので、過去に描いた絵をしばし紹介します。

クロムハーツの広告写真を題材に

クロムハーツの広告写真に一目惚れし、描きたい衝動に駆られて、これも半年ほどかけて、ほとんど引きこもり状態で描きました。

LUCKY MOONのロゴの意味

絵の右上にあるLUCKY MOONは、クロムハーツの広告写真とはもちろん関係ありません。
地元にある多国籍ショットバーの店名です。

半年くらいはかかって描いてたので、こんなに時間かけてただ描いただけというのもなぁ…
そう思っていた時、当時よく友達と飲みに行っていたショットバーのLUCKY MOONにこの絵を飾ってもらおうと思い、この絵の右上にショットバーのロゴマークを付けました。
ショットバーの当時オーナーだったボブさん(アメリカ人)は快く、お店の入り口付近に絵を飾ってくれました。

はじめは原画をそのまま店内に飾ってもらっていましたが、しばらくして、一人で飲みに行ったとき、誇りまみれになった額縁を見て、さすがに原画は持ち帰りました。
この時すでにLUCKY MOONのオーナーはボブさんではありませんでした。
その後、店内の方には、絵の複製したものを飾らせていただいています。

この絵を通して、私の思う(非二元的)観点のリアリティについて

躍動感と静寂

私がクロムハーツの広告写真をみたとき、無性に描きたくなったのは、写真の中に感じた静寂さと躍動感でした。
カッコいいし、単色でもリアルな絵を描きたい人にとっては、いい陰影を醸し出せるという気持ちなども湧いてくる写真です。
でも、それだけではなく、この時、この絵を描きたい衝動が湧いてきた理由は、犬たちの自然な躍動感と無機質な人物の静寂さでした。

ありのままだから感じ取れる躍動感

私もフレンチブルドッグを飼っているのですが、犬たちは皆、犬種が同じであっても表情がとても豊かです。
この絵の題材になった写真はここには載せていないですが、表情がとても個性的。

ありのままだから、ほんの一瞬でも、躍動感が感じとれるのです。

躍動感は常に自然に変化するもので、自然に生み出されるエネルギーのようなもの。

それに、「今」という一瞬なんです。

それに比べ、人間の方は「カタチに囚われた世界」として意図的に映りこんでしまう。

人間にも、もちろん躍動感はあります。
でも、少なくとも写真を意図して撮るという認識があるだけで
「その瞬間をありのままの状態にしておく」ことはほぼないので、躍動感自体も感じられないものになります。

それだけ、躍動感は「ありのまま」の状態と思うのです。

無機質な静寂と、自我の反映

人間と動物、同じ生き物でも、「人間はカタチに囚われて」生きています。

どういうことかと言うと、
物質主義的価値観によって、カタチに振り回されます。
本当のありのままを生きることほど、怖いかもしれない。

人間の多くは、過去を気にして生きている。
また同時に未来を気にして生きている。
そのために、「今」に意識を保って存在することは誰にとってもとても難しいことです。
おおよそ「いつも理想というカタチの中にしか人間は生きていない」ために、「今」にとどまることはなかなか難しいことです。

そして、その「理想というカタチの中に生きている」存在には、必ず自我があり、そうすると「ありのまま」ではありません。

たとえば、
私はファッション系の雑誌もよく見ますが、ほとんどは躍動感がありません。
みんな「カタチ」でしかなくなってしまう。

クレセントボード 色鉛筆とパステル

大切なのは、ファッション雑誌である以上「商品がメイン」です。
人としての存在感より「売り物」の印象の方が大事だからです。

これは小さな例えに過ぎないのですが、
極端に言えば、「自我」とは物質に溶け込んでいる。

動物には、感情があります。
でも、人間の感情は「ほとんどが囚われたもの中に存在」している。

囚われているということは、本当は不自然な状態で、自然ではないんです。
動きがあっても、存在感があっても、本当の自然な個性は「自我の囚われ」によってほとんどが埋もれています。

「個性がない」とただの「カタチ」に見えてしまうから、ありのままを見せる犬たちと相反する印象が並ぶことで、写真がとてもリアルで魅力的なものに感じとれました。

分離の意識からありのままへ

私はこの絵を描いていた頃、仕事上のスランプもあって、なぜ人間はこんなに苦しまなければならないのだろうか?とずっと考えていた時期でもありました。

人間の持つ自我には、必ず「理想」というものがあります。
それは「反対のものが必ずある」ということです。

自我は自然に湧いてくるものだから、止めることは出来ません。
生きていると、必ず自我の苦しみがもれなくついてきます。
なぜなら、自我が求める「理想がいつも必ずある」からです。

そこに執着すればするほど、自我はより理想的なものと、そうでないものを区別し、自分の理想に遠いものほど排除するために、あらゆることに専念し、上手くいかなければ、ひたすら苦悩することになるということを必然的に繰り返しています。

そのころは今飼っている犬ではなく、紀州MIX犬を飼っていました。
ほとんど引きこもりで描いていた時期、老犬のその犬と散歩をしていました。幼少からずっと可愛がって来たから、19年も生きてくれた犬だと思います。犬を見ていると癒されることがあるんですよね。

それに比べて、なぜ人間同士だとこんなにも難しいんだろう。そういう思いも当時ありました。

今となっては「自我の仕組み」と「大我(真我)」に気付くことが出来てきて、「今」というその瞬間に着目することで見えてくるものがあります。

まるで陰陽を大局で見ているような、
それを描いている時は、自分自身がありのままになります。

動物の方が人間よりもありのまま

A5 水彩画

動物は「今」にしかいないんですよね。
人間のように「自我」の支配をほとんど受けない。
感情があっても、その強弱がとても豊かです。
怒ったり、泣いたり、笑ったり…といった人間ほど表情を変えないようにも見えて、でも、感じ取れる躍動感はたとえ、犬が寝そべってじっとしていても感じ取れるものがある。

人間に与えられた個性はほとんど、社会的な背景に乗っ取られている。

そういう意味で、何かやっぱり不自然なんです。
この絵に限ったことじゃなく、人間はもっと個性的な存在でありながら、「自我」によって、支配されているように受け取れるんです。

それは、「自由ではない」ということも感じ取れる
多くは、本当の自由という意味を知らないのではないでしょうか。

非二元を知ると、自由意志はなくなってきます。
それが本当の意味で自由ということに気付かされていくんです。
そして、おのずと「今」という瞬間にいる「大我(真我)」の視点を知るんです。

それこそは、確実にリアルな世界なんです。

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