「みなに幸あれ」観ました
Xとかで簡単に書きたかったけど、長文になってしまったのでこちらに書き残しておこうと思います。
女優の古川琴音ちゃんのファンというだけで、その主演映画を見たいという気持ちから「みなに幸あれ」という映画を見てきました。
ジャンルはホラーで、ほぼ自ら選んで見ることのないジャンルですが、やはり推し活などで自分の主観ではない選択をすると、面白い経験ができるものだと再認識したのでその辺について書いておきます。
残しておきたい記憶としては、以下の3点
・ニッチな映画をみるという行為
・超マニアックな映画が何だったのかという映画の感想
・その内容に関する解釈
内容としてはネタバレと主観がガンガンでることを書いてしまうので、映画を見ようと思っている方は注意をお願いします。
ニッチな映画を見るということ
まず、自分の好きな女優が出ていて、何ヶ月前から個人的に注目していたこともあり、普通に上映される映画だと思い込んでいました。公開1週間前に地元の映画館のチケットでも確保しておこうかなと思ったら、なんと上映予定なし!
どこでやっているの?と探したら関東で4館のみ、都内では新宿/渋谷の2館のみでの上映だということに気づく。あぁ…メジャーな映画じゃなかったんだ…。
とはいえ、見たいものは見たいので新宿の映画館に行くということで情報を見ていたら、なんと公開初日の舞台挨拶付きチケットがまだまだ売れ残っているじゃないですか!でも、仕事の予定がありどうしても公開初日は行けず、ぐぬぬしながら翌日の1月20日の回で見ることに。そちらも、監督さんが来てくれる舞台挨拶付きではあったのですが、そのチケットも余裕で買えるというマイナーさ。
ぶっちゃけ女優推しだけでこの映画にたどり着いているので、監督の挨拶はそこまで興味がなかったのですが、まあ、他にやっているところはないのでそのチケットを確保したという流れ。
当日、女優推しの理由だけでパンフレットを確保し着座。映画を見終わって舞台挨拶の準備へ。映画の感想は、色々ありすぎてちょっと別でまとめますが、正直、ひとこと言いにくいです。ただ、あちこちの映画館でやっていい内容ではないですねwまあ、ほんとに内容を文章で表現するのも難しい、そんな映画になっておりました。そういう意味でも、人におすすめするつもりもなく、私のように女優推しとか、監督推しとか別の理由がある人は見ておいていいんじゃないかなとかそんな感じです。琴音ちゃんの登場シーンは普通の主演映画以上に、常に出ているので、そのファンとしては非常に満足度は高いと思います。
舞台挨拶では、
呪怨などのメジャーなホラー映画を作っている清水崇監督と、音楽を担当したBase Ball Bearの小出さん、この映画を担当した下津さんとKADOKAWAのプロデューサーの方が出てきてくれました。
いやー、ほんとに申し訳ないが誰も知らない…。
映画の内容についてや、その生い立ちなどがしれたのは単純に映画への理解に繋がったので面白かったですが、まあ、そういうことです。
舞台挨拶の後にはパンフレット購入者向けのサイン会も用意されており、いちおうサインを頂きてきましたが、これもほんとに申し訳ないことに、監督への質問などもなく、「お願いします」とだけ言って頂いてしまった感じです。
そんなこんなで、個人的な初体験として、マニアックな映画を見ることや、舞台挨拶、サイン会も初体験だったので、新鮮な経験ができました。
続いて、映画の感想や解釈に入りますが、ここでは感想までで、解釈は別記事にしたいと思います。
映画の感想
この映画、何なんでしょうね。
設定されたテーマは
誰かの不幸の上に、誰かの幸せは成り立っている
というもの。
確かに、このテーマについてホラー的な枠組みを使ってちゃんと表現されていました。
ただ、一見そのテーマとなっている言葉自体は、映画を見る前でも、まあ、そうだよね程度には理解があったつもりですが、「幸せ」という言葉やその範囲などをかなり掘り下げて解釈しているように思いました。
確かに「幸せ」って言葉で書くと「幸せ」ですが、幸せって何のこと?という難しいテーマも同時に扱っているせいで、話がややこしくなっているようにも感じました。
お金があったり、健康だったり、美味しいものを食べられたり、結婚したり、子供が生まれたり、自分の夢を叶えたりと、些細な幸せから人生に関わる大きな幸せのようなものが様々に絡み合い、そのタイミングや主観が加わって、相対的に幸せと感じるという結果が現れると、それが幸せという言葉に置き換わる。上に書いたような幸せでも人によって重要かどうか、幸せとかじるのか、もっと言うと不幸と感じる人もいるのではないか?というのはそんな気もします。
この映画では、それぞれの幸せというのが何なのかを見せながら、その幸せが誰かの不幸の上に成り立っていて、みんなが幸せという状態は存在しないということを強く言っていると思います。
なんとなくではなく、すごく強くその関係があるということを。
現実では、もう少し遠く、間接的になにかの犠牲のもとに、美味しいお肉を食べて幸せ、でその裏にはお肉にされた家畜の不幸があることはわかっているけど、簡単に感謝して頂きますといって食べれば良いとして整理してしまっている状況にも許しを与えてくれませんでした。
もっと、ダイレクトに、遭難した船で仲間の死体を食べてでも生き延びるというような、犠牲と生存、不幸と幸せが直結している感覚を忘れるな!ということがすごく伝えたいがための表現がここまでエグい、狂気の表現に至ったのかと。
確かに、わかってしまった風で他の人達よりは多少その不幸に気配りしてまっせ、程度で自己満足するのも、自分満足の、自分の小さな幸せなのかもしれません。この映画ではそれをあぶり出され、でも、それがだめではなく、そういうものだとしてみんな受け入れて生きているんだということを言ってくれていますが、落とし所は難しいテーマだと思います。受け入れてたまには考える程度で良いのか、真剣に向き合うべきことなのかはどちらもだめと言われているようにも感じました。
と、映画の感想としてはこんな感じになります。意図して観たた映画ではないけれども、パンチのあるマニアックな内容だけに、いろいろ考えさせられる映画で、さらには身の回りの人に見たほうが良いとも勧められず、感想の打ち明け先もないので、SNS上に書きなぐったと、そういう感じです。
解釈はこちらに書きました。
https://note.com/eco_taro/n/n5f6947d67e09
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