映画の感想と自分なりの解釈「みなに幸あれ」

テーマである誰かの不幸の上に、誰かの幸せが成り立つということを、主人公である娘が気付く過程をドラマ化したもの。看護師を目指して東京に出ていった娘は本人としては看護師としての将来に希望を持っている。ある時、田舎に帰省したら、実は実家は祖父母だけで苦しい状態。祖父は病気も始まり死も近づいてきている。本来は長男である父が祖父母の面倒を見るべきではあるが、父は、姉に実家を任せて家を出てしまい、姉もそこから現実逃避。様々な状況はあれど、それを孫が面倒を見る必要も普通はないが、根が優しい娘は孫として、看護師の夢を諦め地元の幼馴染の子と結ばれて、家で祖父母を面倒見ることに至る。とはいえ、祖父母の死とともに遅れながらまた家を出て、自分の犠牲を取り返すため、自分の人生を探し始める。

現時点での自分の解釈を一般的な表現にするとこんな感じでしょうか。非常につまらない文章、ストーリー。

以下は、ネタバレと独自解釈を大量に含む内容ですが、このざっくりとしたストーリーの様に解釈した理由を、それぞれのシーンの解釈と共にまとめてみたいと思います。

文中での登場人物表現:
1.主人公、本人:孫、古川琴音
2.祖父母、祖母、祖父:主人公の祖父母
3.おじさん:帰省先の二階に囚われていたおじさん
4.幼馴染: 主人公の幼馴染
5.父、両親、母:種実行の両親
6.叔母:父の姉、主人公の叔母
7.観客、現実社会:映画を見ている立場の私達やその現実での社会
その他は適宜表現

【帰省シーン】
横断歩道でおばあちゃんを手伝うシーン。ここは主人公の優しさ、現代社会においては、少し目立ってしまう行為だが、それを臆せず行動に移すタイプであることの表現。たぶん、看護師になろうとしているというのも似たような設定だと感じた。
これは、映画全体のテーマを最もライトに表現したシーンで、このテーマでやってくぞ!という宣誓のようなパートなのかと。観客を置き去りにしないためのほんの少しの気配りでしょうか。
その優しい行為も、バッグにぶつかってくる人で報われないことを表現したり、ラストシーンでは自分がそのおばあちゃんを助けることに見向きもしなくなっているということで表現されえいます。結果としての主人公の心理変化をそのまま分かりやすく書いてくれていたということでいうと、田舎での光景はなくても良くてw、何かあって心理が変わってスレたというだけのことかもしれません。

【帰省後の晩御飯の手伝いと味噌】
映画冒頭で父が味噌汁の味が薄いとか、終盤でも味噌汁の味に関するシーンが有ることから、味噌にはなにかの意味を持たせていることは明らか。
たぶん、味噌が幸福度や資産などの現実世界での価値があるもで、比較的ひとの解釈によってその尺度が変わるものとして使われているのかもしれません。味噌汁を塩辛いと感じるのか、薄いと感じるのかは、味噌の濃さだけではないということ。幸せも同じってことね。
二階に囚われていたおじさんの近くにもタッパー入った味噌が置いてあったのは、搾取の結果がそこに置いてあったのか、もしくは、ツボに入った大量の味噌ではなく、その一部だけを還元しているものの表現なのかどちらかは分からないが、搾取なり幸せといった明確ではない基準のなにかの交換が行われているとして、その尺度となるのが味噌なのかもしれない。

【祖父母が豚になる!】
豚などの家畜も、現実社会での誰かの犠牲の上に誰かの幸福があるという現実の表現としてはよく使われる話し。ここも映画としては、テーマに沿った内容では、おばあちゃんを助けるよりも、一歩だけ踏み込んだ表現になっているが、まだまだ、狂気というよりは、なんかおかしい?きもちわるい?という不安を観客に与えるための演出として使っているようにも見える。
主人公が感謝していただかないとね、と言っているのも、観客も同じ考え。祖父母が気持ち悪いのはさておき、言葉だけではみんな同じような答えを持ってくると思う。それにより、テーマを念押ししつつ、主人公と観客のシンクロを高めるために使われているシーンか。

【中学生男子がイジメにあう】
中学生がいじめられていたところを助けるシーン。横断歩道で困っているおばあちゃんを助けるような主人公であれば、当たり前の行動。違和感はないが、ここで幼馴染が初登場する。主人公に一定の共感が得られている状態で、主人公以外にも「普通の人」がいるという存在を見せることで、結果としてはまだ主人公が孤立していない、まだ見ていない両親にも期待が持てる状況を作っている。この先でも幼馴染に頼りたくなる気持ちへの共感度が高くなる演出だと思う。
中学生には後のシーンで再会するが、そのときに主人公はその中学生が自分が犠牲になっても良いという理解を示し、腹を刺すという妄想をしている。現実としては、その中学生は達観しており、いじめっ子側にすり寄ることでうまく渡り歩く方法に気づいており、主人公よりも早く現実に目覚めているといえる描写。

【幼馴染はその父も含め搾取をしないふりで生きている】
その選択、思想もあり全体としてひもじい生活をしている。
親の面倒をみるため、農業を継ぐために自分の夢を諦めているにも関わらず、当の父親は無神経に「やりたいことをやれば良い」と言っている。息子は父のために自己犠牲を選んでいるのに。

「目や口を縫うこと」
強制的に目や口を縫われた場合は、単純に悪で一方的な奴隷のような存在にも思えるが、主人公が途中で自ら自分の目を縫おうとしたこと、幼馴染が自分の首を示させたことを考えると、この表現は奴隷と言うよりは、ある程度本人も納得や諦めの結果たどり着いた状態であるとも考えられる。

理想や自己利益を捨てて、現実社会の中で役割を見出して、それも自らが生贄になることも受け入れた状態が目や口を縫うことに重ねられているのではないか、ということ。
それを、解き放つ行為は、理解して諦めたはずの夢や自由を、再び思い出さえる行為だが、これが開放なのか、余計なお世話なのかでいうと、多分後者と解釈するのが妥当。
結果として、開放されたおじさんは外に出た事自体は喜び、再び自由と自分の意思で歩き出したが、すぐに交通事故に合い命を落とすことに。割り切った状態で囚われていればまだまだ生きられた。

【祖母の指フェラ】
シーンとしてはかなりショッキング部分だが、その後の妊娠、つわり、出産に繋がるが、そこに幸せを享受するものというネジレ解釈を入れると、ひ孫の誕生は通常、祖父母の大きな喜びとすれば、直接それを祖父母に重ねた表現ではないかと考える。
結局のところ、結婚や子供を作ること自体が生まれた子供の幸せではなく(だけではなく)周りの幸せのことを考えて、たとえ出産や育児が負担であってもそういう選択をするという見方もある。更には子供は大きくなれば親をおいて出てしまうので、生物学的にではなく、合理性で言えば子供を作ることのメリットは親には薄いとも考えられる。
社会のために子供を作り、苦労し、生まれた子供も生まれた時点で借金を背負い、それらを返すために搾取されるものとして生まれている。
家畜として生まれた豚のように。

【おじさんパンケーキダンス】
おじさんがパンケーキダンスをしているシーンも分けの分からない部分ではあるが、少なくとも、見世物やイジメに近い印象を受けた。そして、それを夢としてみたのは主人公であるということは、主人公の頭の中にもイジメやそういった見え方があるということ。
家で飼っていると家畜の対比で言えば、ペットと遊んでいるのはペットも楽しんでいると解釈もできなくはないが、それも結局買主側の楽しみにつきあわされているペットという存在を考えさせる材料かもしれない。言葉が通じない犬であれば、それは犬も楽しんでいるとでもなんとでも言えるが、言葉が話せるおじさんだったらどうだろうか。

とはいえ、ペットなり家畜として飼われていることを可愛そうだと言っても、それを活動家のように開放するようなことをしても、結局その開放された家畜は、生きていけない。

【両親にも救いはなかった】
両親がようやく到着したが、いきなりその祖父母と同じ側であることが伝えられる。いよいよ拠り所がなくなった主人公だが、叔母の存在が見えてくる。現実逃避で山に逃げ込んだのか、理由は定かではないが、父がそこに関わっている様子なので、置き換えるとすれば長女に親を押し付けて去っていった長男という立ち位置の父の存在にも見えてくる。

【叔母と会って】
アフリカの話などで映画のコピーである、「誰かの不幸の上に誰かの幸せがある」という考え方自体を簡単に観客が理解できる言葉で伝えてくれているシーン。
薪割りのシーンでは、二度失敗した跡に全力で斧を振り下ろしたときに叔母の頭をかち割ってしまうことに。これは叔母側が頭を出してきたのか、主人公が意図的に叔母の頭を割ったのかは読み取れなかった。
何れにせよ、救いを求めた叔母も、誰かを犠牲にしていた、ミイラ化したイたいが家においてあった。
主人公の考えが最後に切り替わったのが、このタイミングということだろう。

【幼馴染の父の死と家に連れ帰ること】
その後、山を降りたところで幼馴染と遭遇する。そのまま、家に行き、幼馴染にお父さんが亡くなったことを知るシーン。この家族も他人の犠牲を見ないようにしたことから、生き続けることができなかった側の存在だろう。

彼もそれで生きる希望を失ったのか、現実を受け入れたからなのか、自己犠牲を向き先がなくなったからなのか、主人公への愛の表現7日、いずれにせよ主人公に自分の首を締めさせることで、自らを生贄として差し出す決意を示し、主人公がそれを受け入れる。
ここのシーンは主人公と幼馴染のラブシーンなんだと思う。結果的に、自分の家に連れて帰り、かわりの家畜とするが、これは婿養子のような存在であろう。
現実世界で言えば、東京に出て自分だけで自分の夢を追うことを諦めて、田舎で幼馴染と結婚して家庭に入り、家を守っていくことに収まったことを表していると感じた。

ラストシーンはなかなかこのストーリーからは説明し難いのだけど、整理したい点は2つ
・都会らしき場所で新しい男の人との結婚のため、挨拶に向かうシーン
・その向かい先で窓から覗いていた女性が気まずそうな顔でこちらを見ており、それにほほえみ返すというシーン。

たぶん、その女性は田舎の同級生で、まだサンタクロースがいると思っているのかとバカにしていたカップルの女性だと思ったが、自信はない。
仮にそうだとすると、その女性の気まずい感じは、その本人がうまく渡り歩いて自分が幸せを受ける側ではなく、家畜側の立場としてそこにいたのではないかというもの。
それも理解した上で、主人公は自分が嫁に行くとしても、その結婚相手やその家族から搾取される側ではなく、自分がその旦那と家族から幸せをもらう側のポジションを取れたのか、とは思う。

この観点では、主人公にとってハッピーエンドなのか。それもなんとも言い難い構造がこの映画の難しさ。

さんざん長く書きなぐったが、そんな理由をさておけば、そこまで複雑な話ではなく冒頭に書いたような解釈なんじゃないかなぁとは思っています。

猛烈に思い込みで書いているので、こんな考えもあるのかなぁ程度に思ってください。というか、この映画を見た上で、この記事にたどり着く可能性が低すぎて自分の記録程度ではありますが…。

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