見出し画像

【現代語訳】幸田露伴の随筆「花のいろいろ」🌻

(なにぶん浅学なので間違いなどありましたらご指摘くださると助かります。)

【訳】

・梅

梅は野にあっても山にあっても、小川のほとりにあっても荒磯の隅にあっても、ただその花ばかりが美しく香りが清いというわけではなく、その周辺まで風情あるものに見せてくれます。
崩れた土塀、歪んだ粗末な門、あるいはせせこましく痩せた畑、形だけはそれらしい神社など、いつもは見苦しくどうにも不満なものも、近くに梅の木が一本二本と花をつけていれば興趣を覚え眺めてしまいます。
それは例えば徳が高く心の清い人は、どこにいても、その場所の俗に染まるどころか、かえって俗を改めてしまうようなものです。
孔明の「出師の表」を読んで泣かない者でもまだ友とすべき余地はありましょう。しかしこの花を好まない男は下男とするにも相応しくありません。

・紅梅

紅梅で香らないのは艶やかな女の歌心の無いのに似ており、紅梅が香るのはとても嬉しいものです。
まだ新しく青い光を失わない建仁寺垣(竹垣の一種)で囲んだ小さな庭の中に咲いていたり、あるいは何もかも黒み渡った古い大寺の書院の垂木近くで匂っていたりなどするのは、言葉にできぬような良い趣があります。
梅は白梅に限る、紅梅はよくないなどと賢しらにいう人は、品性下劣です。花はあれこれ比べて優劣を語るべきものではありません。

・牡丹(ぼたん)

ボタンは人の力というものが現れる花です。
人が手を加えず打ち捨てておけば、だんだん悲しい花になっていきますが、せっせと手入れして育てることを怠らなければ、自然のままの美しさが一層増します。
穏やかな陽光の下で、見目豊かに咲いているのは、浮世のものとも見えず見事であります。一重咲きもよく、八重咲きも良く、やぐら咲きも良いですね。
この花の特に美しいのを見るたびに、人の力というものもまんざらではないなあと身に染みて感じてしまいます。

・巌桂(がんけい)

モクセイというものは、花は目を楽しませるほどでもありません。
けれどいったん時期が来て咲き始めると、たちまち花の香りが辺りにたち込めて読書をしている窓の中にまで忍び入り、咲いたのを知らせるため庭の隅などでひそかに風を呼んでいるのは心憎いことです。
甘い芳香も悪くないですし、黄金色の花が地面にこぼれた後もなかなか趣があります。
ただ香りがあまりに強すぎる場合だけは、節操のある隠者があまりに多く歌を詠みすぎたかのように、かえって少し残念な気もします。

・柘榴(ざくろ)

人の心も少し気だるくなる頃、天に向かって、青葉のあちこちに見える中に、思い切り紅の火を吐いているザクロの花を見るとハッとします。
人の目を惹く風情があるというのではない、人の目を驚かす美しさがあるというわけでもない、そこには人の眼を射る激しさだけがあるのです。

・海棠(かいどう)

ボタンが花盛りの時、蝶や蜂がその花に戯れても憎いとは思いませんが、カイドウの花が咲き乱れているところに鳥が近づけばもうそれだけで憎らしいと思ってしまいます。
まことにカイドウの花は美しく風情があり、これを越える花はないでしょう。
雨に悩んでいるのも露に潤っているのも、どちらも艶やかな趣があります。
緋木瓜(ひぼけ)はカイドウの侍女だとか。
ああ、麗しの姫君よ。あまりに美しいので人を迷わせねば良いけれど。


・巵子(くちなし)

クチナシは花の中の拗ね者です。
生垣などに閉じ込められても恨む様子もなく、陽の光が届かぬあたりに静かに咲いており、情趣を解する人にとっては、身を潜め世に隠れているのはなかなか趣深いように見受けられます。
花の香りも不快ではなく上品に澄み渡って、雲のさまよう夜明けや風が落ち着いた夕暮れなどは、ことにこの世のものでない趣があります。

・瑞香

ジンチョウゲは、俳句を学んだ商人のようなところがあります。
丈が高くなく、ちょっと見ただけでは見栄えするところもないが、賤しくはありません。
対面すれば興なく、距離を置けば興が感じられます。

・忘憂(ぼうゆう)

カンゾウ(忘れ草)がさまざまな草の間からひょっこりと出て、のどかに咲いている様子は、世の中にへつらわず人にも媚びない、だからと言って世を疎みもせず人に背きもしない趣があります。
花はユリのように美しくありませんが、しおらしくはあります。
万事に素直で、君子をそのまま小さくした様で、特に愛でるような花でもないですが、なかなか好ましい花です。
思うようにいかないことが二つ三つあれば、恨んだり憂いたりするのが人の常ですが、温厚なこの花を見て憂いを忘れ悲しみが癒えますように。


・雪団

オオデマリはアジサイに似ていますが(花の色の変化する)移り気な花ではありません。
初めこそ淡い色をしていますが、やがて雪のように白く、潔くなって咲き終わります。
例えばいささか偏屈な人が年を積み精進すれば心が清く正しくなるようなものです。
遠くから見るも良し、近くで見るも良し、単なる花と見るには惜しい、これを師とすべきであります。

・水仙(すいせん)

見目よく才能もある女が未婚のまま何も教わることもなく、生涯汚れを知らず、山際の別荘に籠って月より他には自分の顔を見せず、心清く過ごすといった風なのがスイセンの花の趣きです。
麓の里がやや暗くなっていく夕暮れに、安房の鋸山の険しいあたりに「きんだい」(金台?)なるスイセンが咲いて立っているのはまたとなく気高いものです。

・菊

キクの白いのは良い。紅も良い。紫も良い。蜀紅も良い。大きいのも良い。小さいのも良い。鶴翎も良い。西施も良い。剪絨も良い。
人の力はキクの花の大きく、花弁が珍しかったり色が妖しかったりするに現れ、キクの花本来の趣きは、花が健やかで色が純粋なのに現れます。
陶淵明が愛したのはシラギクであったと聞きますが、順徳天皇が愛されたのも白いキクであったようです。
白くあまり大きくないのは花を多くつけ、性質も弱くはなく、雨風に悩まされて一度は地に倒れてもすぐに起き上がって咲いたりして、キクを作って誇る今の人とは違い昔の人はまことに愛でたものでありましょう。
夜明けの月の下や墨染めの夕風が吹く頃も、白いキクの花は特に潔く趣があります。
黄色がキクの花のまことの色とか、なるほど上品で奥床しく見えます。
紫も紅もそれぞれ趣があります。
厭わしい花色が一つでもあるでしょうか。
たとえ自分が好まないキクの色があったとしても、人が塗りつけた色ではないので、無理に悪く言い難い。
そうして折に触れて知らなかった趣きを発見して、こんな良いところがあったのに、昔は無分別に貶してしまったなあと後悔したりすれば、キクの花も恥ずかしがっているに違いないのです。
最近ある人がキクの花を手に持った子供を描きました。
菊慈童かと思いましたがそうでもないようです。
蜀の成都の漢文翁石室の壁画にあるという菊花娘子の絵かと思ったのですが、女とは見えませんし猿もいないのでそうでもないようだと困惑しましたが、描いた人の思いより出たキクの花の精だと後で聞きました。
もしその人がキクを深く愛して、キクがその情に報いざるを得なくなって、子供の姿を借りてその人の前に現れたりなどした後、筆をとってその子の面影を写したら、いっそう面白いものが描けたであろうとにっこりしてしまいます。

・芙蓉(ふよう・ハスの花の古名)

ハスは花の中の王と言ってもいいでしょう。
元から備わった品位高く、徳も秀でています。芬陀利も良いし、波頭摩も良い。
香りは遠くまで届きますがモクセイ、ジンチョウゲ、バラのように迫るような趣きはなく、花色は大変麗しいけれどカイドウ、ボタン、シャクヤクのように媚びを売るようなところはありません。
人が見るのは許しても、馴れ馴れしくするのは許さない風情があって、類なく尊いものであります。
夜明けの星の光が薄れる頃、もやと霧の立ち込める中に花の開く音がして、まだ見ぬうちから人は心惹かれてしまうのです。
雲の峰が崩れ、風がざわざわと高い木に騒いで、空も黒くなって、夕立がひとしきり来るにも、早くから花を閉じておく賢さは、知恵のある者が前もって準備して、危機においても悠々としているに似ています。
花の散りぎわもつぼみの時も良く、散った後に花びらがひとひらふたひら小波に身を任せて動くでもなく動かぬでもなく水に浮いているのも面白いです。
しかし花ばかりではありません。
ハスの葉が水に浮いたり、巻いたり、開いたり、破れて裂けたり、枯れてしまったりするのもみな良いです。
茎が緑の時も赤黒い時も全てよく、(花托が)蜂の巣のようになっているのもなかなか趣があります。
この花が涼しげに咲いているのに長く向かい合っていると、自分がこの花を見ているのではなく、花が自分を見ている気持ちがして、思わず自らを省みてさまざまに汚れてしまった自分が情けなく悔しく思われます。
この花を(そうした思いを抱かずに)愛することのできる人は、一体世間に何人いるでしょうか。

・厚朴

ホオノキの花は、山深いところの高い梢に俗世の汚れを知らぬ顔に、ただ青雲を見つめては呼び、その気高さは例えようもありません。
その香りは激しい風にも吹き飛ばされませんし、その花色は白い宝玉を削ってもこれほど白くはあるまいと思われるほど清らかで、その清らかさの中になお温かみもある趣です。
花びらは一重ですが、思い切り大きく咲くので、八重の花の大ぶりなのよりも目の覚める心地がします。
花の中央部もありふれた花とは違っており、仙女の冠などに適した印象で、神々しくも尊い。
この花を花瓶に活けるのは、普通の人のなすところではありません。
まずは漢の武帝、我が国では大閤・秀吉などだけがこれを活けるにふさわしい人と思われます。

・玫瑰

陸奥の外ヶ浜の、波のうちかかる砂浜の中などに、優しく咲いているハマナスの紅い花を見るとしみじみとします。
馬に乗って山々が遥かに連なったり途絶えたりするのを眺め、海が轟き渡るのを聞きながら、この旅情を歌にしようかと思いつつ馬の手綱をたぐり寄せれば、何やらゆかしい香り。
おや、とふと眼を下にやれば、この花が見苦しい蔓草に混じって二つ三つ咲いている。
その面白さは言葉にし難いものがあります。

・棣棠(ていとう)

ヤマブキは中国風の花ではありません。
垣根にすると卯の花(ウツギ)とは趣こそ違ってもゆかしさは同じです。
八重咲きの黄色なのがことに美しいです。
上品な女で髪が黒く色白なのが、この花をかんざしにしているのはとても美しい。
女のかんざしにはこの花こそ素晴らしい。
バラでは香りが濃すぎ、花が美しすぎましょう。

・米嚢花

ケシは咲いたと見るや、もろくも散ってしまい、心の強い人に物のあはれを教え顔なのがおもしろい。
それは例えば幼い頃美しかった娘が、誰かの妻になるとすぐに身ごもってお腹が大きくなったようなものです。
もう少し男を持たずにいればよかったのにと他者が言うのも、その美しさに深く心を寄せたあまりの陰口であります。

・山茶花

ツバキは本来冬の花です。
「爛紅火の如く、雪中に開く」と蘇東坡(1036‐1101。中国、北宋の政治家、文学者)の言ったのがツバキの本当の風情です。
しかし我が国では、早咲きのもありますが、春になって美しく咲くのが多いです。
ツバキの品種はとても多く、享保(1716年〜1736年。江戸中期・将軍徳川吉宗の時代)の頃は人が数え上げただけでも68種ありました。
これも好み愛づる人が多いからで、品種が多くなるのも、ボタンなどと同様でありましょう。
月丹、照殿紅などは中国で花の大きい品種です。
わびすけ、しらたまというのは我が国で白いツバキの名です。
ヤブツバキがモサモサと枝葉の茂っている中に濃い紅の花が咲いているのを人は賤しいというけれど、私は面白いと思います。
また、わびすけが詫び顔に小さく咲いているのを人は見栄えがしないというが、私は素晴らしいと思います。
こんな具合では「巨勢山(こせやま)のつらつら椿」と(坂門人足が万葉集で)歌うツバキも、今の人が美しいと褒める花には入らないに違いありません。
ツバキは葉も結構なものです。
いつも緑で光沢があり、誰も愛さずにはいられますまい。
松や杉の葉がいつも緑なのとは違い、ツバキの葉にはツバキの葉の趣があります。
奉書という紙を作るとき、この葉が使われるのが慣例となっているのもおもしろいです。

・側金盞花

フクジュソウは、小さな鉢に植えて一月の床の間に飾られるのが恒例のようです。
野山に生えているのは、絵には見たことがありますが、実際には見たことがありません。
流石にゆかしいところもなくはない花です。
しかしこの花は備後表の畳の上だけにいる人が愛づる花でしょう。
土を踏むことを知った者が心惹かれるような趣はないかと思います。
フキノトウには微笑んだことがありますが、この花で句作をしたことはありません。

・杏
アンズと中国めいた名で呼ばれるカラモモ(唐桃)の花は、八重も一重も見応えあります。
ことに八重の花で淡紅色に咲いたのが、晴れた日に、砂塵が舞うほどの強い風が急に吹き出した頃、雨あられと夕陽の中散っていくのを見ると、しみじみと感じ入ってしまいます。
名もない小川のほとりにたつ農家の裏口に一本、二本と一重のこの花が咲いて、その陰で洗われた鍋や釜がうつぶせになって日に干してなどあれば、いかにものどかな春の日のありさまがこの花の周囲より溢れ出しているかのようです。

・山桜桃

ニワウメは、とても小さな花が群れて咲き、花の数に入るようには見えません。
この花が庭の四つ目垣の外などに、目立とうともせずに引っ込んでいると、それが田舎から出てきた少女が都に慣れず、何事につけ気後れがして人の背後にばかり隠れているのに似て、しおらしいのがかえって人の目を惹いてしまうようです。
枝がしなやかで、葉がゴワゴワしていないのも花の趣と調和しています。
この花には威厳がないとは私も思いますが、情趣がないとは人も言わないでしょう。

・桃

モモの花は読書したこともなく、歌を作る術も知らない田舎者が老いて俗気もなくして、地酒を一碗二碗ひっかけて酔っ払い、悪気もなく何事か語っては大笑いするかのような趣があります。
土気(つちけ)は多いけれど俗気は少ない花です。
およそ取り繕ったところがなく、もったいぶって見えないところがかえって嬉しい。
川を隔ててかすみの立ちこめた村の奥深くに咲き誇るのを見たり、あるいは谷近くの、春風が緩くなるような崖下の小さな家を包むかのようにこの花が賑やかに咲いたりしているのを見たりするのは、どちらも風流であります。
この花を俗だと言って貶す男がいます。
おそらく自分が少し文字を知っているからといって、自分の親を馬鹿だと悪く言う人ではないでしょうか。
片腹痛いです。

・木瓜

ボケの花は、赤いのも白いのもみな結構なもので、トゲはあれど幹や枝の格好もいい。
これを生垣にするのは贅沢なようですが、庶民の家にもこれくらいの贅沢はあってよろしいというものです。
水に近い村里ですと枝にコケがつきやすく、一層趣が増すのも嬉しい。
庭が狭い場合は、高い窓の下、下見のほとり、あるいは軒先などに丈の低い木が良い。
また庭が広い時は池の向こう側、垣根の隅、あるいは小さな祠の陰などにやや高い木が良いでしょう。
春がまだたけなわとならぬのに、赤くあるいは白く咲きだすのは、実に気持ちのいいものです。

・榲桲

東京にはマルメロの木は少なく、北国に多いようです。
私が以前住んでいた谷中の家の庭に一本この木がありました。
最初は名も知らなかったので、枝葉の格好も大してよくないですし、幹にコブが多いのも不快で、なんだか気難しい人と顔を合わせている気がして、つまらない木だなあ、とばかり思っておりました。
(ところが)ある日、雨上がりに思いがけなくこの花が二つ三つ咲いているのを見て、日頃心の中で蔑んでいたのを花が知ったのでは、と恥ずかしく思いました。
マルメロの花は淡紅色で比類なく気高く美しく、卑しいところがなく伸びやかで、大きさは一寸あまり、花びらは一重で5枚、大変ゆかしい花であります。
花色の白いのもあるそうですがいまだ見たことがありませんが、それも清らかでありましょう。
昔、孔子の弟子に子羽という人がいまして、この人の猛々しいことは(同じく孔子の弟子の)子路にも勝っているほどでした。
ある時、宝玉を持って河を渡っていた時、水神がその玉を得ようと波を起こしミズチを使って舟を挟み撃ちにして脅し取ろうとしましたが子羽は「私は義によって手に入れたのだ、力で奪おうとするな」と言って、左に宝玉を持ち右に剣を振って、ミズチを皆殺しにしたと聞きました。
こんな人だったのでその容貌もおそろしく荒々しく野蛮人のようで、孔子も「顔だけで判断して子羽という人物を見誤ってしまった」とおっしゃったそうです。
マルメロを子羽に例えるのは愚の骨頂ですが、子羽という人はおおよそはこの木のようでもあったのだろうとこの花を見るたびに思うのも花に備わった知恵というものでしょうか。

・胡蝶花

シャガとイチハツは同じ仲間です。
相模(神奈川)上野(群馬)のあたりで見かけることが多いです。
葉はヒオウギやアヤメ、花はカキツバタに似ており、とりわけ優れているわけではないが、それでも捨て難い風情があります。
雨が降った後などに古い茅葺き屋根の棟に咲いているのは面白い。
花は家の主人が目の前に植えられることが多いのに、この花だけ頭の上に植えられることが多いのも不思議な花の徳というものでしょうか。
面白いことです。

・躑躅花

ツツジは品種の多い花です。
花が紅く一重なツツジは珍しくないですが、それが本来のツツジの趣だと思います。
飾り気のない低い(ツツジの)木が一本二本と庭石のそばに咲いていたり、あるいは築山に添いながらまとまって咲いているのはどちらも美しい。
(けれど)この花が咲く頃になると酒の味が不味くなるので、キクの花が咲くまで盃から遠ざかるのが私の習慣です。
他の方はどうか知りませんが、私は向かい合って酒を飲むような花とは思いません。

・李花

スモモの花は、寂しげに青白い。
「夜は疑ふ関山の月、暁は似たり沙場の雪」と古人が詠んだのも嘘ではありません。
貧しい家の、廃れかかった納屋のほとりの荒れた垣根の傍らなどに咲いているのは春の花とも見えず悲しい。
また「消えがての雪と見るまで山がつのかきほのすもゝ花咲きにけり」という歌も実に面白い。
本当に山がつ(山里に住む人)の垣根にこそ、この花はふさわしい。
とは言っても、花がびっしり咲いているのを間近で見るのはよろしくありません。
「李花遠きに宜しく更に繁きに宜し」と楊萬里(中国、南宋の学者・詩人。1127〜1206)が言ったのは、当を得ております。

・玉蘭花

モクレンはコブシの仲間です。
花の色は白と紫がありますが、玉蘭(ぎょくらん)というのは白い方をさします。
散り際は味気ないですが、これから咲こうとする時の様子は大変心地いいものです。
肥えて背の高い女の、雪のように色白なのに似て、眉つきや目つきには好き嫌いもありましょうが、遠くから見ればすぐ心を惹かれます。
しかしこの花の見た目がなんとなく中国風なのを好まない人もあります。
その代わり、大きな寺の庭などに咲きますと、その中国風なのが逆に褒め称えられることもあります。

・梨花

スモモの花は悲しげですが、ナシの花は冷たげです。
カイドウの花は朝の露に美しいですが、ナシの花は夕月の光に冴えます。
サクラの花はふくよかですが、ナシの花は痩せています。
花の中の変わり者だとナシを呼んでもいいでしょう。
あくまで俗ではなく、渋みのある花です。
外国には紅色で葉の多いものもあると聞きます。
それほど珍しくはないけれども、外国のは我が国のより花は美しいのでしょうか。
我が国では実を得ることだけを欲して枝を曲げ幹を短くするので、私も人も本当のナシの木ぶりや花の趣を知ることが少なく、その美点に気づく機会も少なすぎるからでしょうか、詩に比べて歌にはナシの花を賛美するものがまれです。

・薔薇

トゲがあるというのでバラの花を、心に毒のある美女になぞらえるのはあまりに浅はかです。
トゲも緑の茎に赤く見えるのは、趣があるので、触れさえしなかったら憎たらしくもないものを、傍で見る時だけ忌まわしい人の心の毒に比べるのはいかがなものでしょう。
バラの花の色の美しさ、濃い香り、枝ぶり、葉ぶり、実のさま、トゲのさま、どれが厭わしいというのでしょうか。
中国や西洋の人たちがこの花を愛づるのも、まことに理由のあることです。
白バラが夜明けの風に嘯くのも赤バラがが正午に咲くのも、台にもたれて飴のように香っているのも、あるいは地面に咲いて火のような光を発しているのも、皆良いものです。
ただこの花はなんとなく油っこいように思われるのが面白いです。どんなものを地中で吸っているのでしょうか。

・紫藤

春の花はどれもが咲いて目を驚かすものばかりですが、それらはさっさと散ってしまい恨めしく思われてしまいます。
そんな頃、この花だけが遅れて夏に咲くのは心憎くあはれに思われると古の人が言ったという藤の花、この花こそは花の中でも物静かで艶なるものです。
古びた庭の、持ち主が変わって顧みられなくなり、垣根は破れ土は痩せ、草木も人の手の恵みから遠ざかって色も失せ勢いも萎えてしまい見た目も悲しくなってしまった中に、この花が高い常緑樹の梢に這い上って、心のままに紫の波を織りなして静に咲いているのは、花の色も身に染みて趣深く感じられます。
紫に咲く花といえばキリの花、センダンの花も、どれもゆかしい花ではありますが、フジの花は花の姿もその色と調和して、ひとしお人の心を動かします。
フジの花が秋に咲かなくて幸いでした。
冷たい風が吹き、鐘の音も澄み渡る川のほとりの村の秋の夕暮れ時などに、雲から漏れる薄い日差しにこの花が咲いたりなどすれば、私はその陰に倒れて死んでしまうでしょう。
アブの飛ぶ音が天地の活気を物語り、暖かくも柔らかな風が服をしわめ、人々の魂を眠りに誘おうとする時にも、この花を見れば私の心は天地のいずれにもつかない空中を漂い、夢現の境に遊ぶのです。

・桐花(とうか)

朝、風が涼しく地面が露にしっとりしている時に、キリの花が草の上に落ちるのを見るのは、なんとなく面白みがあります。
梢で咲いている時は、人に知られないのも面白い。
花の形もしおらしく、色もゆかしい。
花びらが散り散りにならずに、花の形のまま散る(落ちる)ので手にとって弄びたい心地もします。

・渓蓀

アヤメは、花の姿が上品で、葉の格好もさっぱりしています。
心という字の形で花を開くのも、筆の穂の形で開かないでいるのも、どちらも良い。
雨の日よりも晴れた日の方がよく、夕方よりも夜明けあるいは昼の方が似合う花です。
アヤメの花は人が手入れしないととてもやせてしまいます。
けれども、自生した花が沼などに弱々しく咲いているのも趣があり、都で見ればなんと残念な花の様子であろうかと言っても、旅に出てこれを見ればそうとは思いません。
古歌にいうアヤメはこのアヤメではないと聞きました。
では今、上野あたりの湿地などに多く咲いている花はなんなのでしょうか。
物の名が昔と今とで違っていると、詠もうとする歌も疑心から詠めずに終わってしまうことがよくあります。
いいかげんなことであります。


・石竹(せきちく)

ナデシコは野のものが優れています。
草が多く茂る中にこの花が咲いていたり、あるいは乾いて水のない河原などに咲いていたりすると、道行く者は思わず振り返って上品な花だなと一人ごとを言うでしょう。
馬の飼料にと、身分の低い者の子供が草を刈って帰る中にこの花が2、3本見えたりなどすれば、誰もが歌を詠みたくなるでしょう。

・豆花

マメの花はみな上品です。
ソラマメの花はその色を嫌う人もいるでしょうが、エンドウマメの花は誰もがその姿を愛でずにはいられません。
フジマメの花は特に魅力的です。
どうして都の人はこんなに花も実も良いものを植えなかったのでしょうか。
白い花も紫の花も風情があります。
歌人たちがこの花に知らんぷりで千年余りも経ってしまったのはどうにも解せません。
それとも私の心が捻くれているから好きなのでしょうか。

・紫薇(しび)

サルスベリという名の由来はその幹によじのぼり難く見えることからで、百日紅・半年花と呼ぶのはこの花の盛りが長いことに由来する名称です。
雲の峰が天に切り立ち、小石も炎を噴くかというような暑い夏の日で全ての草などが弱って萎れたる折に、この花が紫雲行き惑い蜀錦も砕け散るかという風に咲き誇っているのは、梅や桜とはまた違った趣があります。
掃いても掃いてもまた新しく花が散っていると小僧はブツブツ言いますが、散っても散ってもその後より新しい花が咲くのは、家の主人が喜ぶところのものです。
やせて老木のようなのにも似ず、まるで少女のように人の手が触れると身を震わしておののくのはどういうわけでしょうか。
面白いことです。

・紅花

ベニバナは、人が庭園で育てたり鉢に植えたのを見たことはないですが、姿が上品で色美しく、世人の愛でる草花にも劣ってはおりません。
一体、人は花が大きくなくては素晴らしいともてはやさないのでしょうか、香りがなければゆかしくなく振り返りもしないのでしょうか。
形が大きく香りのある花だけを愛するなんてとんでもないことです。
この花はアザミに似ているのですが、アザミのように鬼々しいところはなく、色の赤いのもアザミが紫がかっているのには似ず、やや黄ばんでいるので卑しげではなく、葉が浅緑なのもよく調和して美しく、姿かよわくはかなげで、本当に趣深いです。
紅はこの花からとりますが、この花だけでは色は出ず、ウメの酸と合わさって初めて紅の色が出来上がります。
そのことをまだ知らなかった頃、庭で少しこの花を育てたことがあったのですが、花の紅がどうも濃くないものですから不審に思い、朝も夕方もじいっと見ていたことがあって、まあそのおかしさは今も忘れません。

・鉄線蓮

テッセンは、詩にも歌にも忘れられてしまい、物の模様にだけ使われていますが、詩歌で使われる趣がないわけではありません。
垣などに絡まって風車のような形で咲いているこの花は白く大きく、ほどよく紫がかかっており、それが気品高く見え、ひっそりとした美しさがあるのです。
愛でる人が少ないのでしょうか、滅多に見かけません。
私には解せないことですね。

・芍薬(しゃくやく)

ボタンは幹が老いてしまっても、目が覚めるほど艶やかな花を付けるのが面白く、シャクヤクは細く清らかな新しい茎の上に鮮やかで麗しい花をつけるのが美しい。
ボタンの花は重たげですが、シャクヤクの花は軽げです。
ボタンの花はかげりがあるようですが、シャクヤクの花は晴れやかです。
ボタンには徳があり、シャクヤクには才があります。

・鳳仙花

(ホウセンカが)庭の透垣の外などに植えてあるのはまことに良いものです。
間近に置いて見るのはあまり面白くないかもしれません。
浅緑の葉の色と茎の色が、日の光に透けているように見え、小さな花が密集して紅く咲いているのはおもちゃみたいですが可愛いです。
ホウセンカの実を指でつまむと、虫などが跳ねるかのように動いて、莢が破れ種を飛ばしますがその速いこと。
こうしたものを見るにつけても草に木に鳥に獣、それぞれに行われている生の営みが恐れ多く思われます。ホウセンカなぞ花のうちに入らない、と劉伯温(劉基。中国元末明初の軍人・政治家・詩人・軍師)が言っていますが、それはいかがなものでしょうか。

・断腸花 

シュウカイドウは背が低いのに葉が大ぶりで花は可憐です。
(それは例えるなら)高貴な家柄の生まれでもない女が思いのほか寛大で、自分こそはと思いあがった様子もなく、それでいて美貌をそなえているようなものです。
北向きの小さな書斎の窓の下などにこの花が咲いて、緑の苔が厚い地面を覆っているのは、いかにももの寂びて住人の人柄も清らかなように感じられます。

・白芨

白芨(ビャクキュウ)を世間ではシランと呼びます。
紅がかった薄紫の花の形は春蘭に似ていますが詳細に見ればとても奇妙です。
葉はハランをずっと小さくしたようで、一つの茎に花が六つ七つ五つ咲くのはギボウシのようです。
谷中に住んでいた時、庭の隅に咲いたのを見て、雨にあたるように植えかえたのですが、いつともなしに皆枯れてしまいました。
寺島にある家の庭では日当たり良きところにあるからでしょうか、今も元気です。
どうも湿り気を嫌うようです。
この花の姿をモデルにして、鬼の顔を描いたらさぞ異様だろうと去年も思い、今年も思いました。 

・牽牛花

朝寝する者を福の神は嫌う。

若いころから生活力に乏しく、九州のとある色町に入り浸りの男がいた。
色町に行っては酒を呑み追い出しの鐘が鳴るのを恨んで、明け方になって白んでくる雲までうるさいものだと遣り戸を閉め、窓も塞がせ、ロウソクを並べさせて、昼を夜にして遊んでいたが、金には不自由のない身なので人もあれこれ口出ししなかった。

しかし尽きる時は尽きやすいのが金というもの、光を磨く飾り屋と日本の長者として名家であったのが今は百貫に足らない身代となり、こうなっては今までの家柄を守るのは無理だと男は急に分別を極め、家財を親類に預けて、有り金を持って代々住んできた家を立ち退き、大阪の福島に坊主のように暮らし、北にある野山の様子を眺めるだけで十分だとした。
昔は島原でホトトギスの鳴くのを聞いて喜んだものだが、今は聞かないままホトトギスの歌に趣向を凝らすなどして、遊びという遊びはし尽くした果てにもまだ楽しみは残っていたのである。

そんな折、垣根のそばに、いつのこぼれ種が発芽したのか、アサガオの双葉が顔を出して、これが「我がやどすてぬ」という発句となった。
日暮れにせっせと水やりをすると、アサガオは(垣根に)巻きついてツルを伸ばし、早くも6月の初めには、一花咲いてその白が露に濡れて趣深く、七夕伝説と縁ある様子を見せる。
男はこれに心を寄せていつしか習慣になった朝寝もしなくなり、アサガオのつぼみが開くのを見ようと蚊帳から出てタバコで一服、その嬉しいことったらない。
自分で井戸水を汲み上げて、寝顔を洗い山を見ながら
それにしても悔しいことだ、一銭も使わずにこれほど面白く風情あることを知らずに遊びに金を使ってなんの益にもならない年月を送ってしまったなあ
(そんなことを思い)今になって心のほこりを払った。

それからというものは早起きにも慣れて毎朝座敷を払い、庭のゴミを取り、からだをまめに動かしたので、朝飯も進み、昔の苦しみも忘れ健康であることの楽しみを知った。

これは皆アサガオのおかげだと深くアサガオを愛し、翌年の夏になったが、去年より多くの種が残った。
これを蒔けばたくさん育って、ツルが伸びた頃には(花も)さぞかし壮観だと思われる。

男はつくづく思った
たった一本の草でもその種が一年でこんなに多くなるとは驚きいった。最初はしずくでも最後は大河や海となるというたとえはこのことか。だとすると元手は少しでも働けば昔のような金持ちになるのもそう遠いことではなかろう、こうなったら隠者暮らしなんてやってる場合ではない。

こう悟って、その日すぐに金を預けた親類に頼み込み、密かに商売を見立てたところ、
とにかく船で遠くに大回りするのが一番儲かる、もちろん事故の危険はあるが、綱や碇を丈夫にして檜木造りにすれば暴風が吹いても逃れる手立てはある
と老練な船頭の言った言葉、ウソではなかろうと考えて、九百石と八百石の船を新造し、律儀者の船乗りと船頭を乗せて出羽の能代に行かせると、思うようにうまくいき、2年目で差し引き6貫の利益を上げた。
これより商売はとんとん拍子、米や木綿の買い込み、塩田の目論見、一つも外さず、鳥飼から養子を迎えると、それに指図していよいよ金持ちとなり、以前に勝りめでたく家が栄えたのであった。


以上の話というのは北条団水(1663~1711。江戸前期の俳人・浮世草子作者。井原西鶴の弟子)がアサガオの花を題材に面白く想像を膨らませて創作した物語です。
花もめでたく、物語もめでたい。
アサガオの花の風情は全くこの物語の通りと言って良いでしょう。
しかし人の悟りというものはなかなかこの物語のようにはならないのが多く、残念であります。

・木芙蓉

フヨウは葉の感じがよく、花はことに麗しい。キクを除けば秋の花でこれに並ぶ美しい花はありません。
晴雯という女が死んでこの花を司る神となったとき、この女を恋しく思うあまり、ある男がこの花が美しく咲いている前に黄昏で露の深いのも厭はず額づいて、羣花の蕊、氷鮫の縠、沁芳の泉、楓露の茗という四つのものを捧げ、苦心の文を唱えて祀ったという物語は大変興をそそられます。
橋場のとある人の広い庭にこの花が大変多く咲いているのを見たことがあって、その年の秋の夕暮れのことでしたが、こうしたところにこそあの男も泣いたのだろうと、夕月の光薄く西風が寂しく吹く中、艶やかなこの花を見て回り、思いを馳せたことがあります。
そうした物語の全部が本当にあったわけでもないのに、自分もかの男に劣らず愚かなことを思ったものだと後に自嘲しましたが、今また思えば、それもことさらに賢くあろうとしたようでいっそう愚かなことでありました。

(了)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?