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心のサンクチュアリ

去年の年末に、離婚したけれども、家をまだでてなくて、子どもは好きだけど元旦那さんとの折り合いが悪く、自分の実家にも離婚した事を責められているので、

どうにも年末という「家族」と過ごさざるを得ない時間が耐えきれない友人が

私の家にお雑煮を作りにきた。我が家は我が家で、普段単身赴任の姉の旦那さんの実家の名古屋に姉が子ども二人連れて行ったので、家には私の猫のみ。

父も母も亡くなっていないので結構実家がフリーダム、介護も同じ市内に住んでる95歳のおばあちゃんを残すのみなのだ。今年はそんな感じだった。しかし、年末どうしても家族と過ごしたくない人もいるのだと発見した。

これは、なんかなんかの需要がある気がする。

なぜかというと、その居場所がない彼女はわざわざ材料を持ってお雑煮を作りに来てくれて、そのお家のやり方のお雑煮を食べれて私は結構新鮮だった。お醤油を使わないタイプだった。

別に、居場所がない人が、能力がないとか、貢献する力がないとかそういう事では全然なくて、ただ単におさまる場所に収まってないだけなのだ。「家族」とかいうシステムに。

私は、ムーミン谷の冬の住人や、スナフキンのようなキャラに憧れているので、どうにもこうにもシステムにはまらない人たちが年末に集まるアジールがあっても良いような気がした。意図的ではなく、たまたま居合わせただけの感じのやつ。

その離婚した彼女の実家のお母さんが、彼女が離婚をしたことを責めるのだが、私はその理由が気になって聞いたところ、どうやら、「家族」というシステムにおさまることを放棄したことを、そのお母さんはシステムエラーみたいな感じに捉えているようだった。

社会的な慣例にそぐわないケースは、もはやバグのような扱いなのだろうか。私は、(まだ結婚すらしてないが!)もし自分が離婚するときに自分の親に何か言ってほしかったとしたら

「合わないんだったら仕方ないわね」とか多分そのようなことだとおもう。

合わないシステムや崩壊した人間関係を我慢するか、あるいは修復するかどうかは本人および当事者の問題で、血が繋がっていて多少の利害関係があるにしても、外野は何を言っても仕方ないような気もする。

ただ、私がなんか変だなと感じるのは、なんとなく合わない、とか、心地悪いと感じているのに、システムを継続させることが目的や命題にすり替わっていて、何か問題を改善しないままただただ生きることを遂行するロボットのようになってるような場合だ。

そういうのは、遅かれ早かれ、目が死んでいくし、最終的に何かの病気になる。自分が何をどんな風に感じているかを無視するのが当たり前になってしまう。

だから、私はその友達のお母さんには、システムを遂行しなかったことを責めるのではなく、例えば、そのお母さんとお父さんの間にはどのような感情的な交流ないしは培ってきた関係があり、なんか壊れそうな時もあったけど別れないで済んでいるのはなぜかとか、離婚しないで続いている理由をむしろ教えてほしいなと思った。

私の95歳のおばあちゃんは、認知症を患っているけど、死んだおじいちゃんの悪口をいまだに言っているので、「早く子どもを産め」と言われた時は「おばあちゃんがおじいちゃんの悪口を言わなくなったらするよ」と返している。

離婚した友人と、その後年末に紅白も見ず(テレビがない)、ずっと「分かり合えなさ」とか、「心のサンクチュアリ」について話していたのだけど、夜通し話してなんとなく出た結論が、サンクチュアリとか、居場所というのは、具体的、物理的な「場所」ではないのかもしれないということだった。

つまり、いる場所や、環境に関わらず、(いや実際は関わるんだけれども、環境との相互作用はあるから)自分の居場所を作ることというのは、心の中にサンクチュアリがあればできるのではないかということ、そして一度でも心を通い合わせた人や、幸せな記憶のスペースが心の中にあれば、そこがサンクチュアリになって、自分で自分の機嫌を取れるようになってくるのではないかということだ。

ユダヤ人の人が迫害を受けつつも探していたザイオンのような場所は、具体的な奪い合う場所ではないのかもしれない。

ということで、今年のテーマは、自分で自分の機嫌をとる(ノンストレス)、心の中のサンクチュアリ(神殿)を大事にするということになった。

長文お読みいただきありがとうございます。



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