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ひとりで生きていたならば、こんな気持ちにならなかった。

明日は会社に行かねばならない。
床に就く時、そう思ってしまった。

本来行かねばならないなどということは無い。自分はだいたい好きで会社に行っていると信じているし、それは概ね苦痛でもなんでもない筈だ。百も承知なのだけど、「行かねばならない」と思ってしまった以上はもう眠れない。抑圧の感情を抑圧する思考の無限ループは止まらず、丑三つ時まで布団の中で悶えていた私は、やはり起き上がってみることにした。

我ながら夜中に文章をしたためるのは悪い作法だと思う。考えはとことん後ろ向き、どうしてもこの連休中にあった、よくないことばかりが思い浮かぶ。ただ、それでもこのまま眠って忘れてしまっていい感情ではないと思った。

ひとりぼっちの年越し

生まれて初めて独りきりで過ごす年末年始は、地獄だった。

はじめこそ、おせち料理づくりに精を出したり、財務会計の本を買い込んで読み漁ったりと殊勝なことをしているうちは大変気分が良かった。これまでの自分はこの有意義な時間を浪費してきたのだろうかという後悔すらあった。私はひとりでやっていけるという自信があった。
でも「その時」が近づくにつれ、足の裏からじわじわ冷たいものがせり上がってくる。
踏みしめている床の冷たさではない。ひんやり、どろりとした、纏わりつくみたいな感覚。

今年が終わる。そう実感させるものはこの部屋には何もない。テレビもないし、今日はYouTubeやSNSも見ないことにした。きっと年が明ければ、LINEの通知がひっきりなしに鳴ることだろう。焦るようなことはなにもない筈だった。あるのは時計だけ。しかし私の肉体は、その時刻にすべきこと、あるべき状況をしっかりと記憶していた。

誰もがみんなで楽しく紅白を観ているとき、
年越しそばをすすって笑い合っているとき、
カウントダウンを一斉に読み上げている今このとき、私はひとりぼっちだ。

生涯のパートナーだと信じる彼女も、練馬の実家で家族とこたつに入っていることだろう。
0時を過ぎて、鳴りやまない通知音がむしろ、お前はどうしようもなく独りだと強烈に意識させる。
おせちも作った。年越しそばも食べた。しかし年が明けた実感だけが無い。
私だけ、2020年に置いて行かれてしまったような気さえする。

あろうことか、私は酒に逃げてしまった。いや、もともと0時になったら乾杯をしようと思って買っておいた日本酒だったが。燗しようと思っていたことすら忘れて呷った。一人が寂しいことだと、そう思っている自分を認めたくはなかった。めでたい気分になって、無理矢理2021年に行こうとした。

翌朝、私はバスタブでゲロまみれになって倒れている自分を発見した。
頭が痛い、寒い、このままでは死ぬと思い飛び起きて、立ち眩みで頭を打った。


痛い。
死ぬ、本当に死ぬ。

寂しい。
このまま死にたくない。
ひとりで死にたくない。


間違いなく風邪は引いたが、でも「まだ」生きている。死にそう、どうせいつかは死ぬと分かっていても、ひとりでだけは死にたくない。自分が生まれた意味とか、使命とかはまだ見つからないけれど、ひとりで死んでいくことだけは何としても防がなければならない。とりあえずはそのため、生きたい。

みんな、「ひとりで死にたくない」

私もまた戦後日本の急性アノミー、今となっては慢性的なアノミーの中にいるのだ。拠って立つ宗教性を剥奪された日本人には、誰かと寄り集まって孤独を紛らわすバカ騒ぎしか残っていないのだと思い知らされた。クリスマスもバレンタインも節分も、近頃はブラックフライデーだの二十四節気だのも商社や代理店、メーカーの陰謀だと揶揄されているが、私たちには必要なお祭りだ。

年賀状は例年の半分も返ってこなかった。この年末年始で孤独の淵を味わい、私ほど莫迦なことにならないまでも、死を覚悟した若者はきっと多い。今年の自殺者は更に増えるだろう。
孤独は容易に人間を殺す。であれば、信仰の対象としての神、つまり英雄的孤独を肯定する論理が存在しない日本社会に、社会的正義など生まれる筈がない。顔の見えない遠くの誰かなど救っている場合ではない。皆、目の前の誰かを幸せにするために、一人で死なない地盤を築くために、文字通り必死になるに決まっている。

幸か不幸か私は死なず、数時間寝ただけで体調は元通りになった。馬鹿が風邪を引かないというのは、こういうことを言うのだろう。世間では元日からヨドバシカメラが、店頭でPS5をゲリラ的に販売して人々が殺到しているらしい。各地の店先で平然と戦利品を積み上げていく転売ヤーの姿がネットで拡散され、炎上していた。

外出自粛の呼びかけがあった年始早々、あえて人を集めるような行為が世間の目にどう映るか。それでも買いに来た多くの人々が、勝ち誇った転売業者を横目に手ぶらで帰らされる現実をどう思うか。店頭での整理券の配布だけで転売業者をより分けるのは不可能に近い。それどころか転売経済の発達をすら助長する行為に思える。それは必ず巡り巡って量販店や小売店の存在を否定する潮流になるばかりか、独占的な流通を肯定し、資本主義経済を崩壊させる要因にもなりかねない。

およそ私のような若造には想像もつかない理由と決断があったのだろうが、今の私にはそれが、一月の昨対店舗売上の帳尻を合わせたい誰かの、店舗と販売員を垂れ流しの固定費にさせたくない誰かの、目の前の部下や上司を幸せにしたいだけの誰かの蛮行に思えてならない。少なくとも社会的正義に則った経営判断だとは思いたくない。

システム思考とその作法

この論理を分かりきるためにはやはり経営数字を、財務会計をモノにする他なさそうだ。部分最適を戒め、全体最適を目指していたはずが、思っていた「全体」を取り違えていたということがないように。ひとりぼっちにならないために、目の前の誰かを幸せにするための行為で、誰かを知らずに不幸にし、巡り巡って自らを孤独にするようなことがないように。自らが生きる近代資本主義経済のシステムそのものを、我が物にする必要がある。

自分が捉えている全体を外側に突破していくために必要なのはやはり学問だと思う。ただ、己の無知を知り続ける、その無知への恐れが再び学びの原動力になることはあっても、それで宇宙的恐怖、すなわち生まれながらの孤独を克服することはできない。

これでもう大丈夫だという日は決して来ない。
それは今年も来年も、そして再来年も同様である。

どんなに誰かを幸せにしてやったと思い込んでも、生まれてしまった以上は、絶対的に安心だ、ひとりじゃないと思える状況は死ぬまで一日として来ない。孤独にならないために生きていれば猶更、このジレンマは深まっていく。誰かのためだと胸を張った独善的行為でその人を不幸にし、次第に独りになって死んでいく。

しかし逆にこう捉えてみてはどうだろうか。孤独が人間を死に追いやるのであれば、孤独は死よりも更に恐ろしいということになる。ひとり寂しく生き死んでいくということは、肉体的死への恐怖を上回り、それを薄れさせるのではないだろうか。

プロテスタントの信者が恐れる最後の審判、その二度目の死とは、私にとっての孤独死、孤独な生のことである。誰の記憶にも残らず、何者になるでもなく死んでいくということである。「みんなで祈ってお祭り教」信者の日本人であればこそ、この行為は本当にその人のためか?と慎重にならざるを得ないはずだ。いま自分が気持ち良いことではなく、最終的に皆が孤独死しないための選択肢を模索する。生の快楽、死の苦痛を超越した精神は禁欲的に、勤勉に、常にその物事の外側を捉え、社会的弊害がないかを確認する。そうした姿勢はやがて、この集団孤独社会の勘所を見抜くかもしれない。

ひとりで死にたくないという思いが、逆説的に自らの死を相対化し、「孤独にならないため」以外の生き方、使命と呼べる生き甲斐を生み出すことにならないだろうか。もしそうであるなら、私の孤独は一周回ってキリストの説く隣人愛に行きつくのではなかろうか。

金庫に入ったままの鍵

この論理の最も重要かつ難しいところは、「情けは人の為ならず」ということを、本来の意味でも誤謬の意味でも身に染みて分かっているかどうかという点だ。「風が吹けば桶屋が儲かる」ということがあると、頭ではなくハラワタで理解しているかどうかに尽きる。

ひとりで死なないためには、ひとりで死にたくない、誰かを幸せにしたいと祈ってはならないということが分かること。問題はこれこそがシステム思考やメカニズム思考と呼ばれる論理、すなわち自分が捉えている全体を外側に突破する精神そのものだということだ。

”システム思考を行うためにはシステム思考をする必要がある“

これではやはり突破口は無いままに見える。では人がそれを外側に破ることができたのはなぜか。自分を取り巻く摂理に対して、祈るのではなく解き明かそうという姿勢が生まれるのはなぜか。

私は過去、noteで「はて、実は私も関数なんじゃないか?」という疑問を立てている。それはちょうど、私がプログラミングやオートメーションといった機械化技術に傾倒していた時期だ。目の前の単純作業に追われている人々を少しでも楽にしてあげたいという部分的かつ独善的な衝動のみで仕事をしていた頃のことだ。

システムやプログラムといった、うまくいくための仕組みを構築しようと考えるとき、その関心はその枠組みの外側に、すなわち使用する人間へと集中する。枠組みの全体を規定するためには、その外側を捉えなければならない状況が存在する。それを自己の内面への問答に適用しようと思い立つ。このきっかけは何だったか。それもまた私が歩んできた人生の思い込みや記憶、クセが規定した行動に規定される摂理がはじき出した反応にすぎないのだろうか。

分解しても、組み上げてもわからないことは、
体験するしかない。体験して身体で憶えるしかないのではないか。

なので私は明日(今日)も会社に行かねばならない。
このブラックボックスが崩れる瞬間が分かるような経験をするために。ひとりで死んでいかないために。組織の中で生きることを体感し続けることで、仕組みが仕組みの中で仕組みを生み出す仕組みを身体に記憶させる。

もうすぐ夜が明ける。
ちょっとだけ仮眠をとって、出かけようと思う。

記事は基本無料公開にしようと思うので、やまびこの明日のコーヒー代くらいは恵んでやってもいいぜという方は、お気軽にご支援ください。気長にお待ちしております。