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私の本当の望みを「私」は知らない


実は今の現状は無意識による「引き寄せの結果」である。

「引き寄せと引き寄せられの法則」のつづきのような話しです。


誰にでも何にでもオリジナルの周波数がある


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波動はそのまんま、波の動き。山と谷があり、この動きを繰り返しています。高さが変わったり波長が変わったりしながら振動します。

モノでもなんでも、独自の周波数を持っています。

私たちの持つオリジナルの周波数個体であって個性になるようです。指紋とか声紋とか遺伝子みたいなモノですね。

モノや現象が引き寄せられるのは、その波動が共振した時です。

共振した時に、それと似たような波動を持ったものを、引き寄せられるか引き寄せられるかします。

自分の波動の基本の形があって、そのカタチに似た大小の波動に共振します。

小さい波動はそのまんま自分に取り込み、自分より波動が強かったり大きかったりすれば、影響を受けてしまい引き寄せられてしまいます。

※極端に大きな波動の場合はもしかしたらなすすべなしかもしれません。


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本当の望みに自覚はない


で、波動の周波数があるよ、ということを念頭に置いて、タイトルの「私の本当の望みを『私』は知らない」になるんですが

いつものイラストで見ると、こういうふうになっていて、意識の構造はこんな感じになっていると思われます。



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下の方から、何もない無言語エリア。

現象世界のベースになっているような感じで、言語も評価も感情も何もない、本当に何もないけどすべての源になっている部分。もしかして「空(くう)」とも呼べるかも?

潜在意識のさらに深い深い根底のようなとこだと思います。

その上あたりに「波動」のエリア。ここはいわゆるハートのエリアで、自覚できない無自覚のエリアでもあります。

この時点ではまだ、現象は具現化されていません。

具現化されるのはその上、粒の状態になっているあたりから。

ハートは感情のエリアでもあって、感情の表層は顕在意識にのぼってきます。顕在化してからはじめて「思考」できるんです。

思考とは言語、論理的に組み立てられたストーリーのエリア。思考も粒のエリアなので、既に現象として具現化されたものなんですね。

だから、いくら「思考」で望みを叶えたいと思っても、それ自体がただの思考であって、何もならない。

それに思考はただの言葉なんです。何語でどう考えても別に何も叶いません。

その下、無言語で無自覚の波動のエリア、ハートのエリアにまで落としこまないと具現化されてこないってことです。

だから、思考から引き寄せを成功させたい時には、イメトレや体感して、無自覚になるまで一度潜在意識にすり込むようにすればいいんです。

いいんです、と理屈で言うのは簡単ですが、無自覚にまでイメージをすり込むのって大変です。

だから体感してみたりして、その波動周波数に近いものを実際に感じとって共振していくのが唯一のメソッドだとおもいます。思考じゃなくて身体の感覚が覚えるわけです。

本当の望みは、無自覚のエリア、ハートのエリアが無言語で望んだことなのです。

だから言語・思考である「私」には知るわけはないのです。



いつ、引き寄せが成功したと自覚できるんだろう


今の現状は、無自覚で無言語のハートが、自分の周波数で可能な限り共振して引き寄せたか引き寄せられたかした結果です。

思考で(自覚ありで)認識している願望が叶ったのは、ハートでもそう願ったからです。

思考では自分は本気と思っていても、ハートがそう感じていない時は無反応です。思考が望んだことは起こりません。

どちらも同じような本気度の願いであれば、ハートから周波数が変わって身体が勝手に動きます。引き寄せられるので。

ハートは自分という個体のことを、思考よりもよく知っていて、自分が知らない間にさまざまな情報をキャッチして、周波数を合わせていきます。

だから、身の回りを見てみると、自分の必要なものばかりで構成されています。何かしら使うためにそこにあるんです。

自分の思考上では必要なさそう、と思っていても、波動同士のつながりで自分に関係する何かがそれを必要としているからかもしれません。「縁」とも言います。

それは思考にはわかりません。ハートが知っているだけです。

身近なものでは、ファッションやインテリアなど、お気に入りのもので固めていませんか。

思考は自我でもありますので、もっともっとという不足感で、次のものを追いかけ続けて突っ走るので気づかないかもしれませんが、いつかの自分がハートで望んだものがそこここにあるはずです。

いつでもハートは何かを引き寄せたり、引き寄せられたりしているのに、ずっと次を追いかけている思考には、引き寄せが成功していることにも気づかないわけですね。

そもそも「願望」とは今ここにないものを求めることで、今ここにあるものについては、あまりにも当たり前すぎて意識にすらのぼってこないわけです。

ちなみに、波動は山と谷の繰り返しです、

自我(思考)はいつも「今よりいいこと、前よりいいこと」と山のほうばかり考えていますから、谷の部分は「よくないこと」と考えています。

でも「いい」も「悪い」も本来はありません。ただ、その現状があるだけなんですね。

ただ「自分」という個体の波が山になったり谷になったりして、変化しているだけなんですが、人間は太古に「ジャッジメント」を覚えてしまったもんだから「善悪」で判断してしまいます。アダムとイブがリンゴを食べちゃってから。

善悪なんてないんです。どちらでもないんです。個体の波が変化しただけなんです。


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そうは言っても、自我(思考)がそんなこと簡単に納得してくれるはずがありません。嫌なものは嫌だし、苦しいものは苦しいんだ、と抵抗します。

でもね。

波を打っているので、今マイナスの時期と思っていたとしても、プラスの時期が必ず来るんですね。ただ、それを繰り返しているだけなんですから。

不思議なもので、自我はそのことを忘れてしまいます。

よほど高揚感のある感情が現れた時にはちゃんと覚えていて、もう一度あの高揚感を味わいたいと思うんですが、何しろ波なので高揚感も一時的なものです。

逆に最悪時も一時的なものです。

悪い状態の時は覚えているくせに、普段の良い状態の時は「ふつう」で「たいくつ」に感じて何も覚えておこうとしません。

ここがポイントで、たいくつの波動の時期ってプラスでもマイナスでもなく、ゼロに近いところにある時です。

自覚がなくて当然です、自我が苦手とする「今ここ」に一番近いところにいるわけですから。

平穏。安心。リラックス。

まあ、わかりやすく言うと「自我」には勧善懲悪のわかりやすいストーリーしか理解できず、波風のない静かで淡々とした味わい深いドラマは理解できないんです。

でも、自我は知らなくてもハートは知っている。言葉にできなくてもハートはちゃんと覚えている。

言葉にする必要なんてないんです。

言葉は重要ではありません。言葉にならないハートから下のエリアが本質なんですから。

今回は「無自覚に引き寄せたり引き寄せられたりしているんだよ」と「無自覚だから自我の知らないところで起こっていたんだよ」と言う、自我からすればまたまた身もふたもないお話しでした(汗)



◆そいえば昔、「僕がどんなに君を好きか、君は知らない」ってタイトルの歌がありました。「そして僕は途方に暮れる」と言うタイトルの歌もありました。

今回の記事は「私の本当の望みを『私』は知らない」からの「そして自我は途方に暮れる」

しかもそれを言葉で構成された知りたがりの自我にはわからないのに、わざわざ言葉で書いているという矛盾。







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