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死ぬまでは生きられるよ、という気づき

探求の途中である。


途中もなにも、探求とか自分で言っちゃっているところが自我のパラドックス。自作自演というか、マッチポンプというか、本当に巧妙に仕掛けてくる。

いつだったか、かなり深刻な絶望感におそわれた。虚無感かも。それとも厭世観かな。

この世界にいるところはない、なにもしたくない、生きていく理由がわからない。ただ生きていくという人生に意味も価値も見出せない。

非二元のメッセージに出会って「人生はストーリーで、ただ起こる現象に自我が意味つけしているだけで、本来は意味などない」と聞いて、なぜか「やっぱりそうか」と確信してしまったのだ。うっすら心の奥底で感じていたのだろう。

でも、自我がそんなこと認めるはずがない。人生に意味がないなんて、そんな馬鹿な話があるものか。人生は自分で切り開くものじゃなかったのか。

でも、考えれば考えるほど、妙に納得してしまう。自力で切り開くというより起こってくる現象に反応する「縁」だった。自我が抵抗するのも無理はない。かと言って、今さら「そうか。じゃあそうゆうことで。さて人生創造の続きをするか」とは思えなかった。

なにもしたくない時期に突入。

私の中の「計画性」「実行力」「行動力」「将来設計」という言葉がだんだん意味のない薄っぺらいものになっていく。薄っぺらくなればなるほど、じゃ今までは何だったんだ、あんなに苦しい思いをしたのは何だったんだ、という気持ちが湧いてくる。もう止められない。なにもしたくない、なにもできない。

ついでに言ってしまえば、好きなこともやりたいこともない。思いつかないのだ。

もういやだ、リセットしたい。いやリセットしてやり直したい訳ではない。死ぬのは怖い。もしかしたら再起できるかもしれないし、できないかもしれない。もうこのループから抜け出したい。ずっとそう思っていた。

このままモチベも上げられず、絶望したまま死んだように生きていくのだろうか。やる気が起きず、仕事も減って、そのうち貯金も尽きて生活できなくなって結局、餓死か自死して死んでしまうのかもしれない。

向上心のない人生は嫌だ、でも意味がないのはもっと嫌だ、自分を押し殺して我慢するのは嫌だ、今がどん底でそのうちふと何かいいアイデアが浮かぶかもしれないし、簡単にリセットするのはまだ悔しい。

「将来」とか「未来」という言葉が薄っぺらくなっているのに、将来や未来が怖い。ということは本能的に生きたがっているということだ。だけど生きるという気持ちが湧いてこない。ただ元気で生きているだけでいい、という事実もまだ受け入れきれていない。もうおかしくなりそうだ。

生きるのも死ぬのも嫌だ。ずっとそう思っていた。


そんなとき、また右上からのメッセージが来た。


大丈夫、死ぬまではちゃんと生きられるから』



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死ぬまでは生きられるんだった。


「死ぬまで生きられる」

言葉にしたら当たり前すぎて、これ以上の説明も解釈もつかない。超簡単なセンテンスだ。

だから、説明のしようがないんだけど、その時は「ん?そうか、そうだった。なにがあっても大丈夫だった。」と深く納得した。

言葉にすれば、簡単すぎてそれきり何だけど。自我からすれば「それがどうした」になってしまうんだけど。

なんていうか、今生きているということは、つまり今までどうにかなってきたからだ。いろんなこともあったし、自分で気づいていないだけで危険なことも数々あったのかもしれない。

そりゃあ何十年も生きていれば、いろんなことが起こる。平穏なときも悩んだときもあった。平穏なときはなにも起こっていないようで、のんびりお茶をすすっている間に、何かしらの危機から回避していたかもしれない。

例えば出かけたたあとに、忘れものに気づいて戻ったら、乗るはずのバスが事故に遭っていた、とかよく聞く話だ。そんなふうに、自分も誰も知らない危機をいくつもすり抜けてきたから今生きていられる。

しかも自分自身はなにも知らない全くの「普通」の人生だと思っている。何なら退屈くらい思って、それで不足感を感じて次々と何かを追いかけるのかもしれない。

『今、生きているということは、死ぬ時でないからだ。無自覚のまま「縁」と「反応」が起きていて今もちゃんと生きている。ということは、これからもそうだ。これからもちゃんと「死ぬまでは生きられる」んだ』

自我は知らないことは認識できない。(←これもパラドックス)だから生きていることを知るわけない。まだ死んでもないのにこのまま死ぬかもしれないとか、生き方がわからないとか、そういうことは理解できるから思考に上がってくる。

いくらでも不安のストーリーを創れて、不足感からの衝動的なイタチごっこの続きができる。たぶん、探求もそのひとつだ。

どういうわけか、生きているということはまだ死んでいなくて、生命活動があるということで、生命活動があるうちはなにがあっても生きている、ということ。やっぱり書いててもよくわからない。

でも、一番顕著にそう感じたのは、戦後の復興の話を母と話していたときだった。

辺りは焼け野原で、人によっては家も家族も仕事も何もかも失って、米軍が上陸してこのあとどういう目に遭うのか、不安と恐怖を煽られる噂ばかりで、この先日本がどうなるのかわからなかった。

原爆の後には、今後何十年も草木も生えないと言われていた。もうどうにもならない、どう生きていくのか。誰もかれもが不安と恐怖で予測不明の時期が何年かあったという。

映画やドラマやドキュメンタリーで、当時の様子を何度も見たことがある。

もし、自分がそこにいたなら同じように、不安と恐怖で思考停止になってしまったと思う。日本も日本人も死んでしまったように感じたと思う。

でも、今の日本がある。あの頃の人も長生きされている。草木もちゃんと生えている。つまり、ちゃんとどうにかなっているのだ。

苦悩と苦労のどん底から、立ち上がって「今普通に」生きている人もけっこういる。そういうストーリーはたくさん聞ける。

彼らは回想しながら「本当、あの頃は大変だった」という。過去のできごととして過ぎている。それは、思い出したからそこにあるだけで、普段はない。普段は比較的「今」に近いことばかりだ。

それでちゃんと生きてるし、日本もちゃんとある。死んでないから生きている。生きているうちは、無自覚にに様々な「縁」が配慮されている。だから生きていられる。

だから、『死ぬまではちゃんと生きられるから大丈夫』なのだ。


◆言葉なのに言葉にできない概念ってある。まさにこの時の気づきは、後で言葉にしたときに「あれ???」と逆によくわからなくなった。イラストはジョーカー。無垢な魂が心的外傷によって、だんだんと悪の心に塗りこまれていく様子を表現しているストーリー。ホアキン・フェニックスの演技がすごい。名作だと思う。ちなみに亡くなった兄のリバーも好きだ。

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