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私たちはふつうに老いることができない高齢化する障害者家族 児玉真美


#ノンフィクションが好き

重度障害の海さんの母親である児玉真美さんが、自身の老いを認めながら、、高齢化した母親たちにインタヴューを重ね、苦しみながらも一緒に考えていく。
結論と言うものは出ない。
けれども、一人一人、母親たちは、普通に老いることも、普通に死ぬことができないことも認めている。
母親たちは、行きつ戻りつ、まるで、ビデオテープを巻き戻しては再生し、そしてまた巻き戻しては、再生するというような思考のつづれ織りをしていく。
これほど、読んでいて苦しかった本は今までになかった。
それはとりもなおさず、私自身が今抱えている問題に他ならないからだ。
世の中に起きている出来事を考える時、対岸の火事のような出来事であれば、客観的に意見を言えるだろう。
でも今まさに、自分に火の粉が降りかかっている最中の出来事であれば、頭の中は大混乱を起こし、感情は凍り付き、自分が何をしていいのかわからなくなってしまうのではないか。
フリーズしてしまうか。
慌てふためいて、動きまくってしまうか。
叫んでしまうか。
生きているのが嫌になってしまうか。

本書は三部構成になっている。
第一部 これまでのこと
第二部 今のこと
第三部 これからのこと

第一部は、障害のある子供の母親になり、子供を育てながらも、「助けて」を封印させられる苦しみが書かれている。
母親は、子どもの障害に自責の念を持つが、悲鳴を自分で無理やりに押し込めてしまうことがある。
そして、母親は評価される。
「良いお母さん」といわれることに縛られてしまう。
「あのお母さんなら大丈夫」といわれ、「優秀な療育機能、介護機能」になる。

第二部 今のことでは、本人も親もそれぞれに老いる現実が書かれている。母親が老いて、病気になったり、障害を持ったりしながら、夫の介護もしているというような人も多い。
地域資源不足についても取り上げられている。
ノーマライゼーションの理念のもとに、大規模施設を新たに作らず、「地域移行」を進めていくという国の方針がある。
本人の意思を尊重して地域移行を進めていくというのは、一見素晴らしいことのように思える。しかし、現状はというと、地域での資源が全く足りていないのが現状なのである。
グループホームも、ショートステイも、入所施設も、ヘルパーも足りていない。むしろ、閉鎖していく事業所が多い。では一体どうやって、地域で生活していけばいいのか。
この国では、親の無償の介護が、福祉の含み資産となって、地域生活が行われている。地域移行で、むしろ、親依存の度合いが深まってきている。
あるグループホームでは、本人の最高齢が64歳、親が90歳くらいという。
ある母親は自分の子どもがグループホームに入所中で、自分は他のグループホームのヘルパーに入っている。
ここでも、母親たちが頑張っている。

「自分は老いない、病まない、衰えない。」と思い込んでいるかのように、「自分がボケない限り大丈夫」と即答する70代後半の母親がいる。
アンケートでは、4人に一人の家族が自殺や心中を考えているというが、私はもっと多いと思う。
死を考えない家族はいないと思う。私は一人で、何回も死を考えている。
今でも、時々考える。

第三部 これからのこと
わが子との別れについてでは、親より先に子供が死んだとき、心の底で
「良かったね」と語ることがあるが、そこには複雑で微妙な気持ちが混在している。
わが子を残していくことは、はっきりと答えが出ず、ある人は矛盾だらけの回答をする。
この社会の中で、母親であることについては、自分のキャリアをあきらめた母親が、自分の人生はこんなものではなかったと泣いたという。
他の母親もそうだが、自分の人生を「吹っ切った」と言う人が多い。
「吹っきれた」ではない。
週に一度だけ仕事をしている母親は、「発狂しないように仕事に行くね。」と言って出かける。
私も、よく自分を保つためという言葉を使うが、言い換えれば、発狂しないためである。
障害児の母親として生きてきて、人間の本性を見ることができたり、いろいろ良かったこともあるが、ではもう一度、障害児のお母さんをやってみるかと言う質問には、きっぱり「自分の関心のある領域をやってみたいなあ。」と答える人もいる。

「在宅生活を支えてきた親が亡くなった後、障害者をどうサポートするか。」というような、親亡き後問題の考え方では、親が病んで寝たきりになったり、介護が必要になったりする期間が想定されていない。

しかし、親にも老いる権利がある。
いつまでも、元気で障害者の母をやっていられるわけはなく、普通の人と同じように、よれよれくたびれてみたいなと私は思う。
しかし、世間から望まれているのは、ピンピンコロリである。

「人生の大半を重い障害のある人の親として多くを背負い、懸命に生きてきた母その人もまた、残された自分自身の人生の時間を豊かに楽しく生きられたと感じることができて初めて、自分が死んだ後も重い障害のある我が子がかけがえのない一人の人間として大切にケアされ、豊かに暮らしていけると、私たちは心から信じることができる。その時に私たちは初めて、重い障害のある我が子をこの社会に託し、安んじて死んでいくことができる。」
193p-194p

あとがきでは、母親が「障害者の親」とのみ捉えられると、母性信仰や「子育て」イメージに取り込まれて、親による介護は当たり前とされる。
「障害のある子供を持つ親も、ケアラーの一人」と認識することにより、親もまた尊重されるべき人権を有し支援を必要とする一人の個人として、可視化されパラダイムシフトの一助となることを願う。

結局、この本は、願うというような形で終わる。
いや、終わっていないのだ。
これはこれからの問題なのだ。
医療の発達で、新生児死亡率は下がったが、医療的ケアを受けながら生きる子供たちは増える。
医療の発達で、障害者の寿命も延びてきたので、高齢障害者は増える。
長寿国家の日本では、親が高齢化している。

今まで、障害者のケアは、親に丸投げされてきたこの国で、親が死んでしまえば、障害のある子だけが残されるのは、当たり前のことなのだ。
親だけで担ってきた障害者のケアをいかに行っていくか。
安心して託せる社会ではないことは、みな知っている。
だから、無念なのだ。
親はいつ死ぬかわからない。
明日かもしれない。20年後かもしれない。
死ぬことさえ、普通の人と同じにできないのか。
あまりに、悔しい。

しかし、自分の死については、自分でどうこうできる問題ではない。死ぬときは死ぬのだし、生きるときは生きる。
だから、できることとしたら、死ぬ時まで、私らしく生きていくことだ。


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