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ケアする惑星 恋する惑星


小川公代

「ケアする惑星」というタイトルを見たときに、「恋する惑星」を連想してしまった。
「恋する惑星」は、1994年の香港映画。オシャレで、スタイリッシュで、公開当時、とても話題になった。
当時無名だったウォン・カーウァイが監督で、当時無名だった金城武が主演していた。
そして、クリストファー・ドイルの疾走感あふれるカメラワークがとてもすてきで印象的だった。

本当に、画期的な映画だったのだ。

そして、昨年日本で出版された「ケアする惑星」の話なのだが、どこが画期的かというと、「惑星的な視野」で、ケアを考えるというところだ。

これまで、可視化されにくかった「見えない労働」としてのケア。
見えない家事という言葉が使われるようになってきたが、労働としても見えていない、つまりは軽く見られているのが「ケア」である。
家事もケアも、特別な訓練もなく誰でもできるだろう、特に女性ならできて当然、給料払うほどもない仕事なのだ、という認識しかもたれていない。

ところが、ケアはとても繊細で、技術が必要な、誰でもできる仕事なんかではない。
人の話を聴き、相手を思いやり、寄り添い、体を支え、不自由な相手の手の代わりに、体の清潔を保ち、相手を傷つけないように、やさしく、しかし力強く体をケアする。
相手を中心として、相手の体を支えていくため、いくらボディメカニズムなんて使ったとしても、介護者の体には無理が来る。
腰、膝、足、首、腕は痛めつけられ体はボロボロになり、コルセットとシップだらけ。
暴言や家族の無理解によるハラスメントで、メンタルは傷つけられる。
それでも、ニコニコやさしい笑顔を要求されるが、他の職種に比べ、給料が極端に少ない。

しかし、高齢者と障害者が増加してきた今、見えない労働なんて言ってられなくなってきた。
この本の中で作者は「ネガティブケイパビリティ」と「ポジティブケイパビリティ」の両立を提案する。
今世の中で重要視されている「ポジティブケイパビリティ」は、まさに学校教育が目標としている問題解決、処理能力、生産性といったようなものであり、「ネガティブケイパビリティ」は相手の気持ちに寄り添いながらもわかった気にならない宙づりの状態、答えの出ない不確かさである。

この正反対に見える両方を、「数量化できないケアも、経済的な生産性と同じくらい重要であるという発想」をすることにより、「両立」が可能なのではないか。という考え方である。

ここのところは実際、すごく難しいところなのではないかと思う。
男性が稼ぎ手という、戦後日本の価値観から、まだ抜け出せないでいる男性社会では、お金を稼いでくるポジティブな能力、「ケア アバウト」は評価されるのに対して、女性の「ケア フォー」(寄り添う)は二次的なものとされてしまう。

このような社会では、問題はぐるぐるまわりして解決しない。
だから、グローバルな視点などというよりも、もっと広い、宇宙的な視野を持ってケアを論じていくことが必要なのではないだろうか。
だから、ケアする惑星。
そうなってくると、これはSF好きな私にとっては、なんだかワクワクしてくる。
そうだ、狭い世界だけのこととして考えていてはいけないのだ。
多次元的に、もう、クリストファー・ノーランのように、時空を超えて、考えていこう。

恋する惑星
1994年
ウォン・カーウァイ監督


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