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ぱんだ山があったころ

長女が通った特別支援学校高等部は、返還された広大な基地の中にある、アメリカンスクールの跡地だった。
もう、35年も前になる。
隣町の特別支援学校が中等部までしかないため、みんな揃って入学した学校は、肢体不自由が小中高、知的障害が高等部だけで、知的障害は、第二高等部と呼ばれていた。
アメリカンスクールの円形校舎は、職員室や肢体不自由が使っており、知的障害は、夏暑く、冬寒いプレハブだった。

校門はなく、ポプラ並木を歩いて行くと芝生の校庭になる。
校庭は広く、小さな山や、広場があり、それは基地の奥までつながっていた。
校庭には、公園などによくあるパンダの置物などがあった。

だから、みな、校庭のことを「ぱんだ山」と呼んでいた。
基地の中に作られたプレハブに行くまでにもかなり距離があり、さらに奥にある体育館まではかなりの距離があった。
よくもまあ、あのような教育環境があったものだと、驚いてしまう。

団塊世代ジュニアは、特別支援学校でも大人数で、クラスがたくさんあった。
先生たちは皆若く、体育か音楽か美術の先生ばかりで、新任の先生も多かったった。
東京都から辞令がきたら、特別支援学校の教師だったと、あからさまにがっかりしていた若い先生は、その後、障害者に野球を教えるパイオニアになった。
生徒も先生も寄せ集め感があった学校だが、入学してしばらくするとなかなか楽しい学校だということが分かった。

ただ、敷地が広く、校門もないため、脱走する生徒がいた。
脱走する生徒が出ると、先生たちは自転車で走り回って探していた。
校庭の大きな樹や、屋根には「ギルバート・グレイプ」のアーニーみたいな子がたいてい上っていて、下には若い先生が、困った顔で見上げていた。

秋になるとぱんだ山では、肢体不自由と知的障害の合同運動会がおこなわれた。
あっちこっちで、発作を起こして倒れる子ががいて、養護教諭が走り回っていた。
ありとあらゆる障害や、ありとあらゆる病気の生徒が、こんなにたくさんいて、生活している世界があるのだなとしみじみ感じる光景だった。

夏まつりには地元の花火やさんが、仕掛け花火をしてくれた。なんたって、広いから、ナイアガラまでしてくれた。
地元のアクション道場は「ぱんだ山」で殺陣を披露してくれた。

私は、四女と一緒に、すいているところに座って演目が始まるのを待ったが、男の人たちがとっかえひっかえ着替えをするだけで、何も始まらない。
気が付いたら、私たちは舞台の裏側にいて、表で殺陣が行われていたのだ。
席を変えたら、着替えではなく殺陣を見ることができた。

楽しい行事はもりだくさん。
先生たちは本当によくやってくれていた。
長女はといえば、思春期真っ盛り。
児童精神科医が巡回に来るときに、診察を受けるよう言い渡された。
その時の児童精神科医の言った言葉。
「はい、これだけ今いろいろと体験しているから、下のお子さんたちを、しっかり育てられますよ。おかあさん、よかったですね。」
ありがたいような、ありがたくないような。

それでも、長女が走り去った後に、音楽の先生が倒れていたとか、教室で机を頭の上に持ち上げて仁王立ちしていたとか、ハラハラドキドキするようなことばかりが耳に入ってきた。

そんなこんなで、3年間、入学前とはだいぶ大人になった長女は無事卒業。

整った環境とはいえないけれど、楽しく熱気のある学校。
つらいことがたてこんで、落ちこんだときは、よくこの学校に来て、生徒たちが走るところを見た。
校庭に「Kome Kome War」などの曲がかかり、毎朝、生徒たちが走る。
校庭の芝生をぐるぐる回って走る。
その姿を見ると、なぜか元気がもらえた。

長女が卒業した後、とても素敵なとんがり屋根の校舎が完成し、今は肢体不自由小中高、知的障害小中高になり、スクールバスも走るようになった。
とても整備された環境になり、学校名もおしゃれになった。
ポプラ並木は、循環器病院の敷地になった。

だけど、いまでも、「ぱんだ山」に感謝している。

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