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インクルーシブ教育の根っこにあるもの

国連の特別支援教育廃止要請が出てから、あちこちでいろいろな論争が繰り広げられている。
教育者、障害者、障害者の家族は自分の立場、経験、理想などを基に、賛否両論語っている。
なぜかといえば、この問題は、「障害児教育だけの問題ではない、もっと深いところにある何かがおかしいからなのではないか」ということに気が付いている人が多いからなのではないだろうか。

日本の障害児の分離教育が、これほどまで、海外で問題になるのはなぜか。
それは、日本の教育制度そのもの、日本の社会の在り方そのものが、インクルーシブではないからである。
もともと多様性を認めたがらず、「みんな一緒、みんな同じ」が良いとされてきたこの国の教育制度の中では、障害児は、みんなと一緒の行動がとれない。見た目もみんなと同じではないということから、排除されてきた。
やんわりとした口調で、やさしさとか、善意の衣をまといながら。
「お子さんのためには。」と言う切り口上をかざし、障害児と親を傷つけてきた。

40年くらい前には、就学猶予を進められる子供もたくさんいた。
就学猶予とは学校に行かないということである。
そのような背景の中で、特別支援学級、特別支援学校は存在する。
つまり、教育界全体では、通常学級は、「気になる子」の存在なく、一律の教育が可能な「手のかからない子」だけを対象に、同じことを教え、同じペースで勉強を進め、いわゆる、普通の社会を形成する大人になるための教育がなされる。はみ出した子は不幸というしかない。

普通学級の子どもは、障害児、障害者の存在を見ることもなく、聞くこともなく、普通の人として、普通の社会で生きていく。
しかし、それは本当の社会ではない。本当の教育ではない。
SF小説「オメラスから歩み去る人々」に書かれた、オメラスという架空の平和な世界と同じである。

つまり、インクルーシブ教育を行う基本が全くできていない。
目に見える社会は普通の人だけだから。
障害者の存在しない社会で育った大人は、どのようにインクルーシブ教育を行えばいいのか、全く分かっていないといえる。
インクルーシブとはもともと、障害者を普通の人の世界に、無理無理合わせることではない。
私たちと同じ普通の暮らしを一緒にしていいよと、健常者に言われたとして、今現在のこの国の普通の社会で、障害者が暮らすことは困難を極める。
いくら頑張ってみても、傷つき失敗する。虐待さえ受ける。
それでも頑張る障害者を世間はほめたたえる。
障害があるにもかかわらず、頑張っているからえらい。健常者の私たちも勇気をもらえると。

本来の意味のインクルーシブとは、障害のある人に対し、適切な支援を行い、障害のある人と健常者が共に生きていくことができる社会という意味だ。
障害者や難病の人や高齢者などが、生きていくためには、きめ細やかな支援が必要である。しかし、そのような人に対して、適切な支援が今のこの国に、どれだけあるのだろうか。

考えるまでもない。
本当に少ないのだ。
だから町の中に障害者の姿が見えない。
電車の中でも、バスの中でも、飛行機の中でも見かけるのは少数だ。
普通の人は、町の中で障害者を見かけると、どぎまぎし、緊張し、どう接していいかわからないという。
さらには、障害者フォビアの人もいて、障害者を恐れる。
身体障害は理解できるし、かわいいけど、自閉症や知的障害は怖いと言う人はかなりいる。
それは普段障害者と接点を持っていないから。そして障害に対しての知識を持っていないから。
なぜなら、自分たちは障害者と全く関係のない世界で生きているからという、無知なる傲慢さを身に着けているから。
町の中に障害者の姿のない世界で、学校だけ、障害児と一緒に教育できるのかといったら、できるわけがない。

社会自体が、インクルーシブではないからだ。
インクルーシブ教育ができる土壌がないということに、人々は気が付き始めている。
この機会にいろいろな論争ができることはとてもいいことだと思う。

私の長女は、小学校3年生の時に、お客さんだった普通学級から、特殊学級へ変わった。
その時は、普通学級から出て特殊学級へ行ってしまったら、もう、この社会に戻ってこられない、遠い遠いところへ行ってしまうのではないかというすざまじい恐怖を感じた。
今でも、就学に関して、自分の子どもの行く先に不安を感じ、恐怖を感じる親は少なくない。
障害児の親に、このような恐怖を感じさせる社会って、いったいどこまで罪深いのだろう。
しかし、親は自分を責める。悪いことなどしていないのに。
特殊学級の中でも、偏見のある教師はいたし、つらいこともたくさんあった。でも、その後も長女は特別支援教育を受ける道を進んだ。
普通学級より、まだ、ましだったからだ。

今の日本の普通学級は、健常児に対しても、あたたかく個別の能力を伸ばしているわけではない。
なぜ、いじめがおきるのか。
なぜ、意味のない校則で縛り付けるのか。
なぜ、順位付けをするのか。
なぜ、精神疾患の教師が多いのか。
教育以前の問題が山積みになっている。

長女が、特別支援学校の高等部の時、妹が言った。
「モモちゃんと同じ学校に行きたい。」
妹の目には、確かに姉の通う特別支援学校が魅力的に映ったのだろう。
その学校には、一人一人の生徒を大切にする教師がたくさんいて、本当に楽しい学校だったのだ。

本当のインクルーシブ教育は、本当のインクルーシブな社会が基本でなければ行えない。
今回の国連からの要請は、日本の社会の在り方そのものを改革するようにという意味合いに、私は受け止めた。
子どもは一人一人、みんな違う。
一人一人が笑顔で、幸せに暮らせる世の中。
親も安心して子どもを産み育てることができる世の中。
違いを認め合いながら、それぞれの良いところを伸ばし合える教育を受けることができる世の中。
根本的な改革が必要だろうが、決して実現できないとは思わない。

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