水がゴクゴク飲めなくなったら終わりにしたい
≪延命措置は希望せず≫
父と母が二人で施設に入ったのち、延命措置希望せずの書類を用意した。離れて暮らす私はすぐ駆けつけることができない。胃瘻や人工呼吸器がどういるものであるかを私は知っていたし、この同意書の重要性は身にしみていた。父も母も異論はなかった。
その日の父の日記には「延命措置は希望しない書類に署名した」と書かれていた。
その後、母が入院した。脳梗塞のようであった。麻痺はなかったが、立ちあがれなくなり、食事ができず、しゃべることも片言となった。まず経鼻胃管を提示された。鼻孔から胃まで管を挿入するのである。何回も患者さんに挿入したことはあるが、入れられる方は苦痛であり、違和感は避けられない。何回も抜こうとする。抜かれないために医療側は患者さんに手袋したり、手が届かないよう処置が必要になる。点滴は水分補給にしかならず栄養は期待できないが、私は母には胃管はしないことにした。とろみがついた水とおそろしくまずい高カロリーゼリーが供された。
私はこっそり自販機で買った冷たいお茶を少し飲ませた。医療者にあるまじき行動であるが、その時は家族であった。「あぁおいしい」と言ってくれた。1㎝のブドウを半分に割り母の口元に添えると、ちゅうちゅうと吸ってくれた。ほんの数粒でおしまいであった。
聖路加病院名誉院長の日野原重明先生が、100歳を越え入院したとき、とろみのついた水を出され、「こんな水が飲めるか」と怒ったという。
水はさらさらと冷たく、ごくごくと飲めなければいけない。
私は自分で飲めなくなったなら終わりにしたいと思っている。
≪花はうなだれていた≫
母の病室は気兼ねないようにと個室にした。窓から浅間山が見えていた。
私は遠方であり週1回しか行けなったし、兄は数か月前に亡くなっていた。父は施設におり外出もままならなかった。車で数分の病院に入院している母の見舞いに行けないのである。週1,2回の父の送迎を施設にお願いした。父は母のベッド脇にすわり何を話したであろう。迎えがくるまでだだ座っていたという。知り合いも高齢になり、他に見舞客はなかった。母は一日廊下側の短いカーテンの下からのぞく行きかう人の足を見ていたであろう。
私は病院に行く道端の畑にコスモスが揺れるのをみて、2,3本折らせてもらって小さなビンに差し浅間山の見える窓際に飾った。
1週間後、花びらは落ち、茎はうなだれていた。その花がしおれていくのを毎日見ていたのか、何もなかったほうがよかったと思った。
≪肋骨を数える≫
背中がかゆいと母が言った。ベッドの脇から母の背なかに手を入れた。ふくよかだった母の肋骨が触れた。1本1本数えられた。
布団の下から覗いていた母の足の爪を切った。少し切りすぎたのかびくっと足を引っ込めたが、またすぐ差し出した。
次に訪問した時に母はつなぎを着ていた。首元から足の付け根まで長いファスナーがついている。手袋もしていた。看護師さんが来て「便こねをしたので」と言った。おしめの便に手を入れたのである。シーツ、パジャマが汚れるので医療者には一大事である。しかし、その時は「母の気持ち悪さを考えたのか」とその看護師さんを少し憎んだ。私も看護師さんに指示したことがある。勝手だが、当然のように説明する看護師さんを憎んだ。
≪やっけいかけるなぁ≫
母の食事の介助をしていたら、母が「やっけい(厄介)かけるなぁ」と言った。「そんなこと…」としか答えられなかった。
少しずつスプーンに乗せ、口に運んでいくが進まない。カロリーを重視した脂っこいゼリーのようで、まずい。1時間かけて半分も進まない。
患者さんには食べなければよくなりませんよ、と簡単に言ってきたが、あんなにまずいとは知らなかった。
その日の帰り道、新幹線の中で「やっけいかけるなぁ」が繰り返し現れた。それが私が聞いた母の最後の言葉となった。以降、母は何もしゃべらなくなった。
もうこれ以上は改善の見込みなしと思い、施設で看取ってもらおうと父の待つ施設に帰った。もう悪化しても入院はさせないと決めた。母は「お世話になります」と施設のスタッフに言ったらしい。それが最後の言葉であった。
山ほど栄養食を用意したが、数日で肺炎を起こし亡くなった。誤嚥性肺炎であった。
朝、職場に電話があり、昼には施設に着いたが、痰がからんで苦しそうであった。口に中に痰が見えて、行ったり来たりしていた。取り出したかったが、口に指を入れてもできなかった。左で母の手を握り、右手で母の髪をなで続けた。病院なら吸引できるのに苦しくませてごめんなさい、こんなはずではなかったと思った。
最期に呼吸が弱くなり、ふぅっと一息吐いて止まった。
黙っていた父は大声で一言「苦労をかけたな」と言った。
父もスタッフも懸命に食べさせようとしたし、母も答えようとしたのであろう。食べなくても誤嚥は起こるのであるが、食べなくなったら無理に食べさせなければよかったと今は思う。私もあんなまずいゼリーもとろみのついた水もごめんだ。
≪楠本イネ≫
長崎に行った折、フォン・シーボルトの娘の楠本イネの墓参りをした。明治36年に76歳で没した、日本女性ではじめて西洋医学を学んだ産科医である。墓の脇にイネの遺言状の内容が掲示されていた。全くの同感であった。
「もしもの時には、お金は一銭とも無駄にせず、内々に焼いて、ついでの時に寺に送ってほしい、くれぐれもよろしく頼む」と書いてある。
私も、葬儀、戒名は不要と周囲に伝えてある。焼くのは自分ではできないのが残念だ。お墓まで歩いて行けないのも残念だ。生のままでは事件になってしまうので、焼いて、お墓に入れてくれと頼んである。
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