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患者さんの立場になって、と言うけれど

肺がんの患者さんが入院していた。その患者さんは第4病期もすすんでおり、あと1か月程度であろうと家族には説明していた。その後、2週間が経過していた。家族は患者さんと話をし、患者さんも穏やかであったが、家族が帰宅した、その夜急変した。
亡くなってから家族に責められた。「最期に、手を握って、お父さんありがとう」と言いたかったと。家族の悲しみは、怒りとなって私に向けられた。病院の投書箱に不平を並べた手紙を書いた。「具合が悪いのに、外来で待たされた」等々。病院の上層部に呼び出され言われた「患者さんや家族の立場になって…」。その言葉は遠くに聞こえ、以降の言葉は聞き取れない。私は深く沈んだ。死期を正確に示せなかったことは仕方ない、神ではないのだから。家族に信頼されていなかったと理解したからだ。
患者さんの立場になることは出来ない。私も、母の入院中、看護師さんを恨んだことは何回もある。その立場にはどうがんばってもなれないのだ。なってみてはじめて分かる、でもその痛みを忘れてしまう。
信頼されるためには、その立場にはなれないことをわきまえ、想像し、共感し、何ができるか考え、全力で努力することだが、容易ではない。患者さんや家族に責められ、何回も痛い目にあい、また時に感謝され、それを繰り返し、自身の家族の死に打ちのめされながらようやく、それなりのそれらしいものが見えてくる。「それなり」ではあるが。ぼんやり見え始めたころには、自分自身の終わりも見えてきている。
大学院の4年を終え、臨床に戻ってきたとき、看護師さんが「患者さま」を連発していた。この4年間に何があったのかと戸惑った。医業はサービス業だからということらしかった。医者はもてる知識、能力を動員し、困難な状況にある患者さんの状態を少しでも改善しようと努力する。努力しても期待した結果にならないことも多い。死もある。サービス業なら許されないであろう。「患者さま」は相手を理解しようという目線から最も遠い。
「患者さま」は言われるほうにも不評だったらしく次第になくなりつつある。ある企業のキャッチフレーズに「お客様はお姫様です」というのがあった。小馬鹿にされているようで不愉快である。ギャグなら許す。

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