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記憶を失っていく、それでいい

≪失っていく過程≫

施設に何年もいることになった母は自宅に帰りたがった。父は「帰ってどうするだ」といさめていたが、父だって帰りたかった。母は「おじゃんぼん(葬式の方言)で帰れる」と言って諦めていった。その後、父に言われたのか帰りたいと言わなくなったのが却って哀れであった。
遠方で働いていた私は医師を辞めて帰ることも考えたが、地元にいた兄が亡くなったばかりであり、兄の妻もがんで入退院を繰り返していた。高齢の父と母二人をどうすることもできなかった。いまでも詫びたい気持ちでいっぱいで本当にできなかったのか問うている。
私が帰省するたびに車で二人を帰宅させたが、二人とも足が不自由で車の乗り降りも大変であった。鍵のかかった自宅を開けても上がることもできなくなり、ただ庭を眺めて帰ってくることもあった。最後の帰宅となってしまった時、何もいわず車椅子から庭を凝視していた母。最後だとわかっていたのかと後になって思い返した。
母は長男の死を知らされてから、長男の話をまったくしなかった。記憶が次第にまだらとなっていった。涙を流すことはいっさいなかったが、笑うこともしなくなった。よく笑う母であったのに。
母が軽い脳梗塞で入院した時、見舞いに来た母の妹に、「〇〇オが、〇〇オが死んじまってな」と語りだした。長男の死後4か月、耐えてきた抑制が一瞬とれたのだろう。高齢の妹は「そうか、そうか、そうだな、そうだな」と聞いていた。切なくてならなかった。
そして次第にしゃべらなくなった。突然「とうちゃんのところに寄って帰れよ」とはっきり言うこともあったが、発語がほとんどなくなり無表情になっていったので、私のことがわかっているのかもわからなかった。
まずいゼリー数口の食事を終えて部屋に帰る母の車椅子を看護師さんが押していた。「今日は誰が来てくれたんですか」と聞いている。後ろからついていった私は答えを期待していなかったが「ムスメ」とはっきり言った。うれしかった。
年を取り、記憶を失っていく、動けなくなっていくことは自然の摂理であり、その過程を受け入れていくのが子供の役割と考える。見届ける方は切ないが、見られる方は平気であってほしい。記憶はないほうがよければそれでいい。
最期の母は兄の死を覚えていただろうか。高齢の父と母に、長男の死という試練を課した天をうらんだ。


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