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数学者に引き算をさせた医者

医学部の学生時代、医者は自分の専門とする病気で死ぬというジンクスを聞いた。循環器科は心筋梗塞、脳外科は脳卒中、消化器内科は腸の病気でという具合に。法医学の教授は「俺は殺されるということか」と憂鬱そうであった。
認知症の診断のための長谷川式認知症スケールを考案した長谷川医師は、晩年、自らも認知症となり、2021年冬に亡くなった。
認知症スケールの中に、「100から7を引いていく」という設問がある。100、93、86、… 引き算は案外難しい。私が高齢者となりテストされる時には「10を引いて3を足す」という方法をしようと考えておいた。テストされる頃には覚えていないと思うが。
医者になる前は、学術誌の編集者だったので、高名な数学者に話を伺う機会があった。その先生は気管支炎の治療で入院した時、このテストを受けたのだと話してくれた。
驚きと怒り。日本を代表する世界的数学者である。身体は弱ってきていたが頭脳は明晰そのもの。ただ、高齢の入院患者というだけでそのテストを受けたのか。世界的数学者に引き算をさせた医者は誰だ。「若造が」と心の中で悪態をついた。若いかどうか知らないが。
ノーベル化学賞受賞者に元素記号Hは何か問うているようなものだ。気管支炎の治療になぜ、そのテストが必要か。最もその人の尊厳、根幹に関わることをなぜ簡単に試すのだ。スコア化すればもっともらしいからか。仮に、少し認知症があったとしても、治療に関係がないならば試してはいけない。「少し、あるかな」くらいで、粛々と気管支炎の治療をすればいい。数学者と知らなかったとしたら、背景も知らずテストするのか。
怒りで言葉に詰まっていたら、先生は遥かに上の位置にいらした。「引き算させられたんですよ、ふふふっ」と笑っていたのだ。

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